「熊野」の季節。

あれから10年…時の流れは早くて、遅い。犠牲者の方のご冥福を改めてお祈りしたい。

そしてこの10年の間、僕を含めて人々の生活は一変したが、自然の力だけは変わらず、今年も3月も半ばに為ると、早咲きの桜の蕾も綻び始める。

そんな中、観世能楽堂に足を運び、久し振りにお能を観て来た。片山九郎右衛門師の「熊野(ゆや)」…この時期にピッタリの曲だ。

金春禅竹作とも云われる「三番目」能、「熊野」の舞台は平家の時代。都に出てきて平宗盛の愛妾となっている「熊野」が、故郷の母親から病が重くなったので一目会いたい、との手紙を受け取る。熊野は里に帰らせてくれと宗盛に頼むのだが、宗盛は聞き入れない。里へ帰したら二度と戻らないのではと云う危惧と、熊野を元気付けようとする想いで宗盛は熊野を連れ、清水寺へ花見に出かける。

母の病を憂いながら熊野は観音堂で祈りを捧げ、一座を接待する為に舞うのだが、折悪しくも雨が降り、花を濡らし落とす。そこで熊野は

「いかにせん 都の春も惜しけれど なれし吾妻の 花や散るらん

と詠み、宗盛を感動させて許しを得、嬉しさに震えながら帰郷する、という曲である。

全てが豪華絢爛で、話も判り易く、春と櫻のムンとした薫りが感じられる程に美しいこの能の一番の聴き処は、老いた母親が熊野に宛てた手紙の最後で謡われる、在原業平の母の歌

「老いぬれば さらぬ別れのありといえば いよいよ見まく ほしき君かな」

だろう…母親を一人暮らしさせて居る身には、涙を堪えられぬ歌だ。

そして九郎右衛門師のたおやかな「熊野」を観終わった僕は、嘗て母にプレゼントをした茶碗を思い出して居た。

楽家七代長入の共箱を持つこの赤茶碗は、口辺が軽く波打ち、赤と微かな緑の色合いが美しく、その大らかで春らしい姿に惚れて買ったのだが、その後能にも造詣の深い茶湯者に箱書を頼むと、「熊野」と云う銘が付けられて戻って来た。

能「熊野」は、「今生きて居る人」の尊さを改めて教えてくれる曲で有る。

今度母に会いに行った時には、この「熊野」で母に一服点てようと思う。

 

ーお知らせー

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*拙著第3弾「若冲のひみつー奇想の絵師はなぜ海外で人気があるのか」が、PHP新書より発売になりました(→https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-84915-7)。若冲をビジネスサイドから見た本ですが、図版も多く、江戸文学・文化研究者のロバート・キャンベル先生との対談も収録されている、読み易い本です。ご興味のある方はご一読下さい。

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*「Nikkei Financial」での連載コラム第3回、「花の色は移りにけりないたづらに 日本美術の真価は」が掲載されました(→https://financial.nikkei.com/article/DGXZQOGD271D00X20C21A1000000)。最近の日本美術マーケットについて書きました。登録が必要ですが、ご興味のある方は是非。

*「Nikkei Financial」での連載コラム第2弾、「All You Need is Love…and Art ?」が掲載されました(→https://financial.nikkei.com/article/DGXZQOGD077E50X01C20A2000000)。現在ブレイク中の「オンライン・オークション」について書きました。

*「Nikkei Financial」に「閉じ込められている火が、一番燃えるものだ」というタイトルの、直近のオークション業界に関する連載コラム第1弾を寄稿しました(→https://financial.nikkei.com/article/DGXMZO65491530X21C20A0000000)。登録制ですが、是非ご一読ください。

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*拙著第2弾「美意識の磨き方ーオークション・スペシャリストが教えるアートの見方」が、8月13日に平凡社新書より発売されました(→https://www.heibonsha.co.jp/smp/book/b512842.html)。諧謔味溢れる推薦帯は、現代美術家杉本博司氏が書いて下さいました。是非ご一読下さい。

*「週間文春」3月12日号内「文春図書館」の「今週の必読」に、作家澤田瞳子氏に拠る「美意識の値段」の有難い書評が掲載されております(→https://bunshun.jp/articles/-/36469?page=1)。是非ご一読下さい。

*作家平野啓一郎氏に拠る、拙著「美意識の値段」の書評はこちら→https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/review/8124。素晴らしい書評を有難うございます!

*拙著「美意識の値段」が集英社新書から発売となりました(→https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1008-b/)。帯は平野啓一郎氏と福岡伸一先生が書いて下さいました!是非ご一読下さい!

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*山口桂三郎著「浮世絵の歴史:美人画・役者絵の世界」(→http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062924337)が、「講談社学術文庫」の一冊として復刊されました。ご興味の有る方は、是非ご一読下さい。