「Love Art & Help Japan」会議と、「『勝者』に拠る自己犠牲」。

月曜日は仕事後、アジア・ソサエティーに赴き、「Ushio Shinohara and Tomokazu Matsuyama: Neo-Dada Mix/Remix」と題された、ニューヨーク在住の二人のアーティストによる、トーク・イヴェントを聴講。

出演は上記「牛ちゃん」こと篠原有司男氏と、筆者の後輩でもある松山智一君、モデレーターはアジア・ソサエティー・ミュージアムのキュレーター、手塚美和子さんである。

トークがスタートすると、両人の作品紹介が始まり、先ずは牛ちゃんから。ラウシェンバーグの「真似」作品や、ボクシング・ペインティングの制作風景フィルム等が映され、それを本人の解説付きで観る。そして松山君は、非常に流暢な英語でのプレゼンテーションを行い、その内容も素晴らしかった。

この二人のアーティストの作品には、浮世絵や江戸絵画を強く意識した物が見受けられるが(牛ちゃんの「KABUKI Michael Jackson」は、何とも云えぬ凄い作品である)、その世代差や環境の違い、制作当時のアート・トレンド等の差異が、如何にも興味深い。最後のディスカッション・タイムは、松山君が先輩を立てた事も有って、牛ちゃんの一人舞台になってしまい、余り「討論」に為らなかったのが少々残念では有った…。

イヴェント終了後は、予てからの打ち合わせ通り、手塚さんのご好意で、彼女のお宅にお邪魔しての「Love Art & Help Japan」キャンペーン(→http://www.nyartbeat.com/nyablog/2011/03/love-art-help-japan-photo-report/)の会議。

当初、「New York Art Beat」ファウンダーの藤高晃右君と、クリエイティヴ・ディレクターの佐賀関等氏との3人で始めたこのキャンペーンも、この晩のミーティングには我等3人を含めた、アーティスト、美術館やインスティテューションのキュレーター、美術史家、デザイナー、ライター等の総勢13名が集まり、ピザを食べながらの「ブレイン・ストーミング」と為った。

「Love Art & Help Japan」キャンペーンの今迄の経過を説明し、現在募金箱が設置されているギャラリーの紹介、そして今後このキャンペーンをどう展開していくか、をディスカッションする。クリスティーズに置かれた最初の1個から始まったこのキャンペーンも、今は超メジャー・ギャラリーを含む40近いギャラリーに設置されている。そしてこのキャンペーンのコンセプトは、募金額の大小よりも(勿論、それも大切だが)、その素晴らしいデザインのチャリティー・ボックスを置いて貰う事に拠って、アートを愛する一般の人々に日本の現状と、今回の震災で露見した「人事で無い」問題点を認識し考えて貰う、と云う点に有ると云う事を確認した。

3時間に及ぶディスカッションは、メンバーが例えば「9・11」や「カトリーナ」を実際に経験した時の思いを語ったりしながら、非常に有意義な会議となり、方向性が固まって来た…素晴らしいメンバーが揃ったモノだ!

そして昨日は、残念にも中止となってしまった、カーネギー・ホールでのポリーニのコンサート・チケットを払い戻しした後、そろそろ三周忌を迎える(時が経つのは、何と早いのだろうか!)、ニューヨーク裏千家の所長であった故山田尚氏のパートナーだったT女史、山田氏のメキシコの親友R氏とJ氏、日本美術史家M先生と妻との6人で、「H」でディナー。

このR氏は所謂「茶人」なのだが、驚くべき事に「写真」でしか見た事の無い国宝茶室妙喜庵「待庵」を非常に気に入り、写真から比率を計った末、地元の木材、大工さんのみを使って、云ってみればワイルド・ヴァージョンの「『待庵』写し」をメキシコに再現した人物である。

そしてこのR氏も、松島に親しい友人が居るそうで、津波の話になると涙ぐんで居た。J氏も京都での留学経験が有り、日本語もペラペラ、二人とも超インテリで話も本当に面白い…山田氏を偲びながらも、非常に楽しい夕食と為った。

さてその最中、メキシコ古代マヤ文明の頃から存在すると云う、或る「球技」の話に為った。この「ボール・ゲーム」は、神に捧げる所謂「神事」らしく、R氏とJ氏の話に拠ると、今で云う所のラグビーとサッカー、バスケットの起源の様なモノで、もしかしたら「蹴鞠」に最も近いかも知れない「ゲーム」だそうだ。

何れにせよ、この「球技」の話で物凄く感銘を受けたのだが、それは古代に於けるこのゲームでは、「勝利者」のチームの方が「生贄」を出すと云う事で、勝ったからこそ「名誉の『自己犠牲(サクリファイス)』」をするのだと云う。

今ニューヨークで、例えば貧しい国や、近年災害に見舞われた国から来ている人々に対して、不用意に「日本に救援支援募金を!」等と云ってしまうと、真顔で「何故我々が、自分達より豊かな国にお金を払わねばならないのか?」と問い返される。

この「勝者の自己犠牲」の話は、今でも世界で先進国、若しくは経済大国と呼ばれる日本がこう云う時期だからこそ、世界の他のあらゆる国の人々と接して居る一人の日本国民で有る筆者には、胸にグっと考えさせられる問いで、経済的・社会的勝者(と思われる人々)こそが、その「名誉」を以ってして犠牲を払うべきだと云うその理念を、「慈善」と云う言葉に置き換えて、自分自身今一度深く考えてみたいと思ったのだった。

日本と云う国で、本来の意味での「慈善」や「寄付」が根付いていないのも、こう云った「『名誉ある』勝者の犠牲」の精神が、歴史的に余り無いからかも知れない。

いつの時も「己」を知る事は困難だが、周りを見渡してこそ「己」を知る事もある。それは日本の中でも、世界の中でも同じである…自省した夜であった。