Hさんのお茶会。

昨日は、以前日記にも記した、裏千家NY出張所元所長の故山田尚氏の四十九日法要の時に再会した、アメリカ人のH親子のニュージャージー州ホーボーケンのお宅での「お茶」に、呼ばれて行って来た。

Hさんは年の頃60代後半から70代頭、山田氏存命中の裏千家退職記念パーティーで初めて会った時、「君達はお茶の事を知っているか」と直に聞かれ、「ほんの少しは」と答えたら、「それでは近い内に、君達をお茶に呼ぶ」と云って立ち去ったままだったのだが、前述した法要の時に再会し、昨日滔々夫婦で招待されたのであった。

家の近所のポート・オーソリティからバスに乗ろうとしたのだが、見事に乗り遅れ、PATH TRAINでホーボーケンへ。其処から再びバスに乗ろうとしたら、また行ってしまった直後だったので、仕方なくHさんの住所までタクシーに乗り、約束の時間より20分ほど遅刻して到着したのだが、我々の口を出た第一声は、「本当に此処で良いのか?」であった。

この国に来て以来、「お茶」に呼ばれた回数は数知れず、大概マンハッタンでは高級アパート中の茶室や、ビル・オーナーが屋上に造った箱庭付き茶室、タウンハウスを大胆に改装して造った茶室など、また郊外では日本庭園付きの本格的茶室などであった。要は自分の頭の中では、不覚にも「アメリカでの『お茶』は、金持ちの趣味である」と、勝手に思い込んでいたのだ。

Hさんのお宅はズラッと並んだ古い建売住宅の一つで、周りはヒスパニックやポーランド移民ばかり、ハッキリ言って裕福な人が住む場所ではない。夜は治安も?な場所である。玄関まで階段を上りブザーを押すと、娘さんのMさんが出迎えてくれ、家に入った。家の中は、それ程片付いてもいない…つまり非常に「普通」で「自然」なのである。

中に通されるとキッチンがあり、その脇に棚で区切られた、畳の敷いてある六畳程の空間が在るのだが、此処が茶室らしい。中位の高さのテーブル(これが棚の代わり)には水指、風炉と釜が置かれ、風炉にはキチンと炭が仕込まれていて、電気風炉ではなかった。床の間(と思われる空間)には、竹の様な絵の版画(後で聞いたらMさんの作品)が掛かっている。

座るとHさんが入って来たのだが、驚いた事に、その時彼は実際には存在しない茶道口の戸を、パントマイムで開けて閉めたのだ。

そして、静寂の中でお点前が始まる。ハッキリ云って、そこには何一つ素晴しい道具は無い。「会席」は親子で作ったそうで、何と蒸篭に乗った「塩茹でスパゲッティ」「ケールの胡麻和え」、それと小指ほどの大きさの「チキンのカレー風味3ピース」。お菓子はパパイヤ、パイナップルのカット・フルーツ。普通なら、こういった西洋風アレンジのお茶は気に食わず「狙い過ぎ」と憤慨する所だが、今回はどうなる事かとは思ったが、不思議と腹は立たなかった。

点前中にHさんの動作が時折ふと止まるのは、所作作法を忘れて思い出そうとするから。それでも、彼が茶入から震える茶杓でお茶を掬い、茶碗に移す時には、その真剣な眼差しに「何故か」目頭が熱くなった。一切無駄口を利かず、途中何度も止まりながらの点前、道具も粗末な物ばかりで、滅茶苦茶な会席。

しかし何とお茶は本当に旨かったのだ!!

薄めに点てられたお茶は、何ともスッキリと喉越しから胃に収まり、思わず唸ってしまった。その後、「チベット死者の書」に凝っているという親子と、2時間程チベット仏教的、神道的、キリスト教的「死」について語り合い、手作りクッキーを食べ、バスを乗り継いで家に戻った。

Hさんのお茶は深く心に残り、その理由を考えた。

筆者はプロの茶人でもないが、仕事柄また子供の頃以来この40年間、茶事・茶会に普通の人よりは出席していると思うのだが、その中でもこの日は、こう云っては失礼かもしれないが、最も「金銭的に」裕福とは云えない家屋、道具、食べ物、作法の茶であった。それでもお茶が真剣に美味しかったのは、一重にHさん親子のお茶に対する真摯な気持ちと、客に対する本当のもてなしの心が溢れていたからとしか考えられない。

Hさんは大学時代、岡倉天心の「Book of Tea」を偶然読み、お茶に関心を持ったそうだ。その後、故山田先生の弟子になり、30年以上お茶を人生に於ける思想の一つとして生活している。膝も悪く作法も道具も儘ならず、がしかし、心はしっかり「茶人」なのである。金や作為まみれの茶の多い昨今、自省と共に心を新たにし、また日本の茶道という芸術には、時と場所を越えて普通の一アメリカ人の人生にさえ深く影響を与える力があるのだ、という事を再確認した一日であった。

Hさん、本当に有難う。

追伸:当初この日記でHさんを実名で登場させましたが、その後思い直しイニシャルにしました。そんな事で怒るHさんでもないと思いますが、「裕福ではない」等記した為誤解を生まない様にと思い変更しました。