「美術史家養成ギブス」の、その後。

イキナリで恐縮だが、問題:以下の言葉から連想される人物は誰か?

お能、お茶、合気道、浮世絵、神道、歌舞伎、演歌、江戸っ子、学者。

さて、お判りだろうか?答えが判った人は、相当ーに筆者に近しい人か、「業界カルト」である・・・。答えは「遊び人」。では無く、「ウチの親父」である(判る訳無いか:笑)。11月3日(文化の日)は、親父の81回目のバースデーであった。

親父は昭和3年、旅館の末っ子として神田に生まれ、自宅から半径500メートル内の小中学校を出た後、戦時中に肺を病んだ事も有り、研究者の道を目指した。その後、これまた半径500メートル以内の大学で、神道神道美術を研究するが、手伝いに行っていた國華社で、当時東大初の「浮世絵」教授であった藤懸静也氏に出会い、浮世絵研究の道に入る。そのキッカケが、「君、神様の事を勉強したいなら、先ず俗世間の事を知らなきゃイカン。俗世を知るには『浮世絵』だよ。」と云われたからだ、と云うのが親父らしい。それからずっと「浮世」に居座り続けている様だが。

さて、親父の「歴史」はこれ位にして、本題に入る。

ご存知通り、父親と長男(筆者)と云うのは何処の家でもムツカしい(優ちゃん風に)。ウチの親父は、長男を「どうしても」日本美術史家にしたかったらしく、上に記した様な自分の職業的関心や趣味の全てを、幼い長男に強要した。「和風王子・孫一」(島田雅彦先生、ゴメンナサイ)の誕生である。

長男が物心付いた頃には、茶室で正座して苦い「お茶」を飲まされ、座って5分も経てば、コックリと舟を漕ぎ出す「お能」を観させられ、口答えをすれば、八段である「合気道」の関節技で「謝る」まで責められ、また何か質問をしたりすると「知らざぁ云って、聞かせやしょう」と、子供にとっては訳の判らん科白を吐いては、長男を困惑させるのだった。

小学生に為ると、この「和風教養:火の玉千本ノック」は激しさを増し、例えば毎週日曜夜8時の某国営放送、と云えばご存知「大河ドラマ」だが、これを「必ず」親父の隣に座り、極度の緊張状態で観ねばならなくなった。何故ならば、番組中に突然「鎌倉三代将軍暗殺を企てたのは誰だ?」とか、「関ヶ原で西軍に付いた、武将を5人云ってみよ。」等の質問が飛んで来るからである。これにもし答えられない場合は、その場で親父の書斎・書庫に走って行き、調べた上で答えねばならなかった・・。

春・夏休みも然りで、親父は長男とそのクラスメイト2人を従え、新幹線で奈良・京都へ。楽しい旅行かと思いきや、行く所は寺社や博物館ばかりで、帰りの新幹線では「恐怖のテスト・タイム」。

狩野永徳狩野派何代目だ?」とか、「法隆寺の伽藍配置を図に描いてみよ。」等の質問(小学生に、である…涙)に答えられないと、弁当を買ってくれないのである(号泣)。何と云う父親だろう!!今になって思い返せば、当時から「長男」は、親父から「名前」で呼ばれた事は殆ど無く、「君(キミ)」と呼ばれていたのだ・・親父にとっては、長男は「息子」というより「生徒」で有ったのだろう。

この話を以前、日本美術史家の山下裕二先生にしたら、「スゴイね、それ…まるで『日本美術史家養成ギブス』じゃない!」と仰った。そう、ご存知「スポ根アニメ」の金字塔「巨人の星」で、父星一徹が息子飛雄馬に付けさせた、「大リーグボール養成ギブス」の捩りである。流石山下先生、ボキャブラリーが豊富でいらっしゃる(笑)。確かに当時の親父は、気が短く手も早く、卓袱台ひっくり返すのも日常茶飯事で、正に「星一徹」的では有ったが。

しかし「長男」が中高生になると、反抗期+雑誌「ポパイ」創刊等も重なり、「和風王子」はアッと云う間に「米国万歳ディスコ野郎」へと変貌を遂げ、森羅万象「日本的なるモノ全て」を嫌悪し始める。この頃から親父と長男の距離はドンドン大きくなり、引いては口すら聞かなくなるのであったが、関係が変化したのは、長男28歳の時、親父の「サバティカル」年に、一緒にNYに行った時の事であった。

その年は、親父がアメリカ・ヨーロッパの美術館に眠る、「浮世絵を中心とする日本美術品」の調査をする為に渡米し、自分一人ではチケット一枚取れない「学者」の為に、長男がわざわざそれまで勤めていた(本当は「嫌気の差していた」)広告代理店を辞め、「家事手伝い」として一緒に付いて行ったのだが、これが「長男」の人生を変えた。

「何故こんなに多くの日本美術品が外国の美術館に有るのだろう」、「世界の多くの有名美術館で、日本美術が何故こんなにも大切にされているのだろう?」と云った素朴な疑問が直ぐに長男に産まれ、これが今の長男を形成している、と云っても過言ではない。あんなに嫌だった「日本」や「日本文化」が素晴しく、重要に思えて来て、ちょっとは勉強する気になったのである。「親の因果が子に報い」や「門前の小僧」とは良く云ったモノで、そうなると話は早い。運良く入った、「明和3年」創業のオークション会社で早や17年になるとは、当時の親父も長男も、想像だにしていなかったで有ろう。

広告代理店に入社が決まったと報告した時、親父は全く情け無さそうに、「君、ホントに毎朝満員電車で、会社に通うの?」と、真顔で聞いてきた。「こいつはサラリーマンを馬鹿にしてるのか!」と憤ったが、今から思えば「学者バカ一代」の人間には、単純にそう思えたのだろう。

それに対して、今の仕事に就き、ロンドン・NYの研修が終わって正式採用になった時には、ただ「良かったな。」と微笑んだが、「日本美術史家」には程遠いが、「ほんの少し」は関わりの有る職業に「長男」が就いた事が、これも「ほんの少し」嬉しかった様子であった。

去年「大日如来」を14億円で売った時、今までの「火の玉ノック」の感謝の意味も込めて、「親父、お陰様で世界記録で売れたよ!」と電話をした時も、「あぁ、そう…ところでカタログに間違いを見つけたんだが…」と全く意に介さず、金額よりも「カタログの誤り」の方に興味津々と云う、「古ーい学者振り」であったが、今筆者が何とか食えているのも、「仕事」で日本に帰っている間の「古典芸能三昧」も、全て親父のお蔭と、心より感謝している次第なのである。

親父殿、どうぞ長生きして、これからもカタログの間違いを見つけて叱って下さい。

「和物狂い」となった、愚息より。