「疫病」、或いは「美」と「芸術」の神が微笑む時。

人は、「老い」に抵抗出来るだろうか。芸術家が、究極の「美」を手に入れる事はできるのだろうか。そして全てを失った者に、それを取り戻す事は可能だろうか。

昨晩大雪の積もった、ニューヨークとしては信じられない位に静かな朝、ポリーニの「平均律クラヴィーア第1集」を聴きながら、このダイアリーを書いている。

14世紀から続く、ミラノの貴族の家に生まれたフィルム・ディレクターは、間違い無く筆者の青年時代に、余りに大きな影響を与えた。そして、この映画監督の作品に登場する人物は、皆「何か」を大きく欠損している人間達である。しかしその「欠損」は巨大だが余りに自然で、それは自分自身や家族等周りの人々の直ぐ側に在る、と観る者が容易に感じる事の出来る、強力な「喪失感」である。失ったモノを取り戻そうとするのは人間の必然であろうが、取り戻す為にはそれまでの数百、いや数千倍のエネルギーが必要であり、そしてそれは時に「死」を意味する。

「若さ」「才能」「名声」を失った芸術家は、もはや生ける屍、不能者である。その男が悩み苛つき、旅に出、その旅先で見つけた物、それは「若さ」と云う名の「究極の美」であった。

両性具有的且つ、少年と大人の狭間に在る美しい青年は、「美と芸術の神」として芸術家を、その身を歓喜に震わせる程に、魅了する。「疫病」と云う名の、迫り来る「老い」と「死」に怯えながら芸術家は我を忘れ、しかし、「美の求道者」の使命として青年を求めストーキングする…自分が失った「全て」を取り戻す為に。そして自らに化粧を施し、胸にバラを挿し、余りに滑稽である自分に気付きもせずに、芸術家は金色に輝く水辺に立つ青年のシルエットを眺めながら、愉悦に浸りつつも無残な姿で、砂に倒れ死んで行く。

この余りに「美し過ぎる」映画は、筆者の言葉では到底語り尽くせない。1911年のイタリアの港町を舞台とし、細部迄異常に拘った「Grand Hotel de Bains」やファッション。芸術家の心を見透かす様に、ほんの微かに微笑む「美神」ビヨルン・アンドレセンと、終始落ち着き無く「眼」で素晴しい演技をする、名優ダーク・ボガード

トーマス・マンの原作では「小説家」が主人公であるが、構想当時のモデルは、実は「マーラー」その人だったと云われており、この映画の主人公の名も「グスタフ」、職業も「作曲家」となっている。全編を支配するその作曲家の「交響曲第5番・第3楽章」は、恰もクリムトの「Der Kiss(接吻)」を想わせる「美と頽廃の極致」、古美術風に言い換えれば「ヴィスコンティ好みの極致」、と云えるだろう。

「疫病」を気にし始めている筆者は、当然今までに何回もこの作品を観てはいるのだが、前よりも「確実に」グスタフ・アッシェンバッハ教授に親近感を覚えた事、そしてエンディング・テロップが流れる間中、2人の男に亡骸を運ばれて行く彼の姿に、つい自分の未来を重ねて合わせている事に、衝撃を覚えたのだった。

昨夜雪が降りしきる中、1人で温かい珈琲を飲みながら、ほぼ20年振りにルキノ・ヴィスコンティ1971年制作の奇跡の名作、「ベニスに死す」を観た。

贅沢な、そして「痛烈な」一時だった。