列車の中で零れた涙。

昨日は朝4時半に起きて、グランド・セントラルから列車に乗り、某市に日帰り出張であった。

往復6時間近い列車の旅は、「読書」に持って来いの環境である。しかし今読んでいる作品が、もう最終巻の半ばと云う「最終段階」を迎えていたので少し悩んだのだが、それは、「列車の中」と云った環境でこの作品を「読了」して良い物かどうか、と云う理由だった。しかし考えた末にそれも良かろうと思い、本を鞄に入れ、眠い眼を擦りながら出発した。

この作品は、19世紀パリで活躍した「2人の『天才』芸術家」の交流と、その2人の「愛」と「芸術」、彼らを取り巻くサロン、二月革命等の社会政治背景を巧みに織り込んだ、壮大な「タペストリー」とも呼べる長編小説である。

2人の天才芸術家の内、1人は「音楽家」、もう1人は「画家」であり、そしてこの19世紀のパリと云う街には、恰も18世紀の京都の様に、あらゆる「芸術的才能」が一斉に集い、その才能同士の思想、技術、友情、肉体、嫉妬、そして魂の交流に因って、「新たなる創意」が産まれていた稀有な時代であった。そんな時代背景の中で、この2人の「天才」はその対照的な芸術、人生、人格が故に「君子の交わり」の如き交友関係を結ぶのだが、それが本作では余りに美しく描かれるのだ。

またこの作品では、絵画、音楽、彫刻、文学等の全ての芸術のジャンル、そして政治体制や思想に於いても、驚くべき詳細な調査と繊細な描写が為されている。例えば「音楽家」が久々の演奏会を催すシーンでは、読者はもう自分がその「音楽家」に為ったが様に、唾を飲み込む事さえ躊躇われる程に緊張し、次の場面では観客として貴婦人達とそのサロンに座り、感激の余り盛大な拍手を「音楽家」に贈るだろう。

大好きだった場面の1つ、「画家」とその親友の版画家の夫人との「天才」を廻る会話のシーンでは、夫人が事典から引用する、「『天才』について語る事は、『天才自身』によってなされねばならない」と云う部分、また作者がカントを引用して、「天才」と「趣味」の相違を「『天才』は産出能力、『趣味』は判定能力」と「画家」に語らせる部分では、この全4巻に渡る長編小説中「このシーン」が登場する、「第3巻半ば」まで読み進める事の出来た読者ならば、自分が「天才」で無い事等充分承知の上でも、「画家」の「天才である事の苦悩」を、まるで「我が事」の様に理解する事が出来るであろう。

そして仕事が終わり、ニューヨークへ戻る揺れる車中で、滔々「音楽家」が39歳の若さでこの世を去った。

その「臨終」の瞬間、揺れる列車の中で有るにも係らず、また最近この本を読む時に必ず掛けていた音楽が無かったにも係らず、涙が零れ落ちた。それは意外な出来事であったが、納得できる事でもあった…恐らくこの「全4巻」の長編を読み進める内に、自分が「音楽家」の親友の1人に確りと為っていたからだろう。それ程この小説には読者を引き込む「力」が有り、そしてまるで「フランス文学」を読んで居る様な美しい文体で、読者を「19世紀のパリ」へと自然に誘うのである。

文学の「今」は、厳しく困難であると思う。「読み易さ」や「売れ行き」に左右され、またこれは如何なる芸術の分野でもそうだが、「軽薄短小」「小手先」に走る「『自称』芸術作品」が多い中で、「骨太」且つ確りと読者に「感動」と云う「芸術の根本」を感じさせる事の出来る作品に今出会う事は、奇跡に近い。「魂を揺さぶる様な感動」の無いアートは、そこに如何に高尚な「言説」が有ったとしても、それには敵わない…そう云った意味で、この作品に巡り会った筆者は、真に幸福であった。

天才「音楽家」の名はフレデリック・ショパン、「画家」はウジェーヌ・ドラクロワ

平野啓一郎、27歳時の大作「葬送」(全4巻)を読了した。
新世紀の始まりを飾る、大傑作である。