神田神保町界隈の思ひ出。

今日のニューヨークの最高気温は15度…しかし週末には29度の予報。この「ローラー・コースター・ウエザー」、もういい加減にして欲しいものだ。

昨晩は、福田和也氏の「アイポッドの後で、叙情詩を作るのは野蛮である」を読了。福田氏は硬派な論客だが、その一方「骨董数寄」でも有り、一度お会いしてみたい方である。

さてその著作の中に、浅草等の東京下町の今昔の風景が頻繁に出て来たのだが、すると何処と無く郷愁に駆られ、自分が生まれ育った、東京下町の「神田駿河台」や「神保町」界隈を思い出したのだった。ニューヨークで「神保町」の事を思い出す等、変に聞こえるかも知れないが、今住んでいる「ヘルズ・キッチン」の雰囲気が何処と無く「神保町っぽい」からなのかも知れない。

筆者は東大病院で生まれた。両親がその頃、本郷西片町に住んでいたからだろう。そう云えば以前、駿河台下に在るベルギー・ビール・バー「BRUSSELS」で、夜中過ぎに友人のクリエイティヴ・ディレクターA氏と、其処で知り合った建築家のO氏と飲んでいる最中、偶然にも3人が3人共「東大病院」で生まれたと云う事が判り、妙に盛り上がった事が有った…どうでも良い話だが。

閑話休題。さて、当時(1960年代後半ー70年代前半)の靖国通りは、石畳に線路、懐かしい「チンチン電車(都電)」が走っており、駿河台下の交差点に都電の駅が在った。駿河台の裏手「山の上ホテル」の坂を下り、夏目漱石も出た「錦華小学校(現:御茶ノ水小学校)」の直ぐ近所に住んでいた筆者は、九段に在るG学園幼稚園・小学校に通うのに、行きは徒歩、帰りは当時15円の「チンチン電車」か、20円の都バスを使ったりしたものた。

そして今でも、駿河台下から神保町や小川町に掛けてと云えば、「古本屋」や「スポーツ店」が軒を連ねているが、この界隈のもう1つの大きな「売り」は「食」で、昔からこの地が学生街で有る事から「食堂」と呼べる様な安くて美味しい店も多かった。

例えば、未だ健在の「キッチン・カロリー」や「南海」、ロシア料理の「サラファン」、蕎麦の「まつや」と「神田藪」、鍋なら「ぼたん」と「伊勢源」、中華と天麩羅と云えば、ちょっと高級だが「すずらん通り」の「揚子江」と「山の上」(「近藤」や「深町」のオヤジ達も此処に居た)、甘味と云えば「さゝま」や「竹むら」、「エスワイル」等など…「各国料理」を廉価で食せると云うこの嬉しい歴史は、今でもこの土地に脈々と受け継がれていて、この辺が「ヘルズ・キッチン」ぽく感じる所以なのかも知れない。

さて神保町に関する「個人的思い出」から云えば、この付近の今と当時との間では、「大きな違い」が3つ有る。それは、1.今「ミスド」の都心型店が在る所(その前は「タキイ種苗」)に「映画館」が在った事(もう一館近所に在った様な気もする)、2.その隣に今でも「ビルの中」に健在であるが、「人生劇場」と云う名のパチンコ屋が一軒家で在った事、3.そして商店街に「ヨシカワ」と云うおもちゃ屋が在った事だ。

何しろこの「ヨシカワ」には、散々お世話になった。家族で「お出かけ」で銀座に行った時等は、「キンタロウ」と云うおもちゃ屋に寄ったりしたが、普段の御贔屓はこの「ヨシカワ」で、当時大人気だった「ブルマーク」製ソフト・プラスティックの「ウルトラマン怪獣人形」や「G・I・ジョー」、「変身サイボーグ」等も此処で買って貰ったし、「サンダーバード」のプラモデル、トミカのミニカーや「超合金」等も、良く弟と買いに行ったものだ。

また、確信は無いのだが、当時在った映画館は確か「日活」だと思う…しかし、そこで「大人の映画」を初めて見たのは確かだし、その隣の「人生劇場(皆『ジンゲキ』と呼んでいた)」には、叔父さんに良く連れて行って貰い、当時は勿論指で弾く機械だったが、人生初めてのパチンコを経験し、人生を勉強した場所だった…何しろ店名が「人生劇場」ですからね、「人生劇場」(笑)。

それと忘れてはいけないのが、神保町に在った寿司屋の「達磨」である。

この「達磨」は、ウチの父親が足繁く通っていた事と、当時其処の息子がやはりG学園に通っていた事も有って、家族での付き合いも有った。此処の名物は何と云っても「光り物」、そしてそれを「赤酢飯」で握った寿司で、ネタも然る事ながら、赤い寿司飯が旨い。

此処での思い出は、子供ながらに実に強烈なのだが、それは何しろこの「達磨」のオヤジが「何時も」酔っ払い、赤い顔をしてカウンターの向こう側に居て、魚を捌くのを見ていると偶に手元が震えていたりしたからだ。そして或る日、「達磨オヤジ」は包丁で指を切ってしまい、「痛えなァ、コノヤロウ!」と自分にぼやいたりしていたので、子供ながらにここの寿司飯が赤いのは、その血のせいでは無いかと思っていた(笑)。

この「達磨オヤジ」のエピソードは数多有るのだが、1つ挙げれば、或る夏の晩、家族で「達磨」に行っていた時の事、店内はクーラーが効き過ぎて、鳥肌が立つ程寒かった。するとカウンターの向こう側で、白いワイシャツを腕まくりしたサラリーマン二人組が、「オヤジ、寒すぎるか冷房下げてくれよ」と「達磨オヤジ」に声を掛けた。

するとオヤジは、振り向きざまに酔った赤い目を見開きながら、「クォラァ!けちとら、おめぇら冷してんじゃねぇんだ、『おとと様』冷してんだァ!そんなに寒かったら、背広でも着てこの辺走って来な!」と凄んだのだった。それを聞いたサラリーマンは、一瞬ムッとした様子だったが、余りの剣幕と酒で真っ赤になった「達磨オヤジ」の顔と、振り上げた包丁の切っ先を見ると、「スミマセンでした…」と急にしおらしくなった。因みに「けちとら」とは「こちとら」の神田弁である(台所を「でえどこ」と云う様に)。

ウーム、昔の「神田っ子」は何と切符が良かったのだろう!そして神保町は今でも学生街、古本屋や楽器屋、「いもや」や「キッチン・ジロー」等の食堂、カレー屋、蕎麦屋、各種エスニック料理店、映画館(岩波ホール)、「レオ・マカラズヤ」と云う未だに店名の「意味」が判らない「カバン屋」などで、独特の「東京カルチェ・ラタン」且つ「東京ヘルズ・キッチン」(笑)的雰囲気を醸し出しているである。

しかし最近、駿河台下で「神田いるさ」(和食屋) と云う店をやっている弟に聞いたのだが、今この界隈の「再開発計画」が持ち上がっており、反対をしているのだそうだ。

古き良き神田駿河台・神保町の街並みと雰囲気を壊して、こんな所にまで「ヒルズ」や「ミッドタウン」的な一大コンプレックスを建てようと計画しているらしいが、「ゼネコン」や「都市プランナー」の皆様方、あんまり「神田っ子」を苛めないで下さい…。

何故なら「神田」は、六本木や青山と違って「田舎」では無いのですから。そして神田っ子は、「気」と「ケンカ」の強いのだけが取柄なので、どうぞご用心を…。