イタリア的「レゾン・デートル」とは何か…:"Io Sono L’Amore (I Am Love)."

ニューヨークの昨日の「七夕」は39度、この期に及んで未だに9月のオークション出品作品を獲りに行っているので、胃も痛いし疲れも取れない…もうしっかり「夏バテ」で、体調も悪い(泣)。

独立記念日連休の最終日は、妻とイタリア映画「Io Sono L'Amore(米題:I Am Love)」を、L.E.S.の映画館に観に行った。

この映画は以前から興味が有って、それはデレク・ジャーマン御用達、筆者の御贔屓でも有るティルダ・スウィントンが主演女優で有る事と、その彼女が全編イタリア語での出演をしているからであ有った。監督・脚本はイタリア人監督のLuca Guadagnino、制作にはティルダ本人も名を連ねており、配給も以前このダイアリーで記した「ずっとあなたを愛してる」(拙ダイアリー:「再生」、或いは「呼び継ぎの心」参照)と同じMIKADO FILMが参加、自然と期待も高まる。

暑い中劇場に行ってみると、もう既に長蛇の列が…そんなに人気の有る映画だったのか!相変わらず待ち合わせに遅れる妻を待ちながら並んでのだが、運良く筆者の数人後でSOLD OUT…何とか満員の会場に滑り込む事が出来た。

さてこの映画を端的に云えば、1人の女性の「Raison d'Etre(存在理由)」を、非常にイタリア的に問う作品である。物語は、繊維業で財を成した或る大富豪家の長が引退を決意する所から始まり、スウィントンはその息子の嫁の役。仕事も出来、社交、良い妻、良い母親を忙しい生活の中でこなしているのだが、しかしその生活は、息子の親友且つビジネス・パートナーで、料理人をしている或る青年に出会った事から一変してしまう。彼の料理を口にしたその瞬間、息子の母は長い間忘れていた故郷ロシアや、自分の女としての「性」や「恋」を恐ろしい迄に鮮烈に思い出してしまい、そしてその事実にうろたえながらも、自分が富豪家に嫁いで来て以来放置してきた「本当の自分」の「長き不在」を快復すべく、脇目も振らずに突き進んでゆく、と云う話なのだ。

そしてこの映画の最後には、非常に暗く重苦しい結末が待っているのだが、それでもこの「母」はめげない…と云うよりも、この「母」はその家族・地位・財産全てを放棄し、唯一「女」として生きる事を選択するのだが、「山猫」や「甘い生活」の21世紀ヴァージョンとも思える、イタリア・ブルジョワジーの中に放り込まれた、夫に因って本名すらも変えられてしまったロシア出身の美貌の妻の「レゾン・デートル」は、作品の最終段階でこの不幸な事件が起き、教会で放心状態になっている妻(スウィントン)が、夫に「You don't exist.(英語字幕に拠る)」と吐き捨てられる事に因って、逆に確立するのである。

本作品には、到る所に「ヴィスコリー二(ヴィスコンティ+フェリー二)」的要素が鏤められており、時にはアントニオーニを髣髴とさせる場面等も見受けられ、それも巨匠たちへのオマージュとして観るのも楽しい。またティルダ・スウィントンは、その「憔悴と希望」の熱演も素晴しいが、衣装担当のジル・サンダーの服がその絞られた体に非常に良く映え、彼女の気品ある美しさ(素顔迄も)を、より一層キラキラと引き立て輝かせている。

劇場に居たアメリカ人達の中には、きっとこの作品の結末が理解できなかった(若しくは不満である)人が多かったと思うが、イタリア的な、余りにもイタリア的な美しい映画であった。