幸せな「社員」としての私。

先週の金曜日、朝5時過ぎに起きて飛び乗ったサンフランシスコからの便は、午後4時過ぎ、奇跡的に定刻にJFK空港に着き、普通ならば直帰する所なのだが、この日ばかりはロックフェラー・センターのオフィスにその足で戻った。夜7時から会社の「ボード・ルーム」で催される、或る「ディナー」に出席する為である。

「ボード・ルーム」とは、VIPが来社した時の為、若しくは社内の非常に重要な会議を行う為の、49丁目に面した綺麗な部屋で、通常近くオークションに出品される印象派や現代美術作品が飾られていたりする。以前この部屋に飾られていた「オークション史上世界最高価格のピカソ」を、千宗屋氏が「床」代わりに使用した茶会の写真が、「フクヘン」こと鈴木芳雄氏のブログに掲載された事をご記憶の方も有るだろう(→http://bit.ly/cybKAp)。

そのボード・ルームは、何時もより照明が落とされてキャンドルが燈され、レジェやトゥオンブリー、ピカソやヘンリー・ムーア等の絵画・彫刻が並び、部屋の中央にはディナー・セットされた長いテーブルと、その周りに23客の椅子。テーブルの中央には美しい花、部屋の隅にはバー・カウンターが設けられ、2人のバーテンダーとウエイター達、そして会社のカメラマンが待機していた。

さてこのディナーの主催者は、クリスティーズ名誉会長のS、そして22人のゲスト中最も重要な人物は、「ボード・オブ・クリスティーズ」(世界統括ボード・メンバー)でクリスティーズアメリカ副会長、クリスティーズ・アジア会長、全アジア美術部門スペシャリスト・ヘッドを兼任し、筆者の上司でもあるT。

Tはシンガポール出身でコロンビア大学を卒業後、30年前に当時第二会場であった「クリスティーズイースト」に中国家具の専門家として入社、香港オフィスの立ち上げや近年の中国市場の開発等に大きな役割を果たし、アジア人として初めてこの地位迄登りつめたが、今年滔々「定年」を迎える事になった、非常に美的センスの有る「スペシャリスト」である。

ボード・ルームに三々五々ゲストが入ってくる…直轄の中国美術部門のメンバー全員、筆者を含む他のアジア美術部門シニアスタッフ、ヨーロッパ家具・陶磁器部門の長、人事部や経理部、ビッド・オフィスの部長達等に混じって、驚いた事に「元社員」が2人と、この間迄「メール・レディ」(郵便を各部署に配って歩く女性)だったSやドアマンのGも居て、カクテルを飲みながら和気藹々…女性達は全員「黒」を着用している。そんな中暫くすると、ホストであるSの声で、皆席に着いた。

そう、このディナーは、Tの「新たなる出発」を祝す晩餐会なのであった。

先ずはSの簡単な挨拶と、シャンパンで乾杯…そしてファースト・コース「帆立貝のソテー・トリュフソース」が運ばれる。ワインが注がれ、皆近くの「同僚」と最近観た(若しくはゲットした)アート作品や、Tとの想い出話等を楽しそうに話す。

そしてファースト・コースの皿が引かれると、徐にSが立ち上がり、スピーチを始めた。Tの経歴に続きその功績を称え、会社からの感謝を伝える。30年間一緒に仕事をしてきた「同士」の言葉は、深い愛情に満ち溢れ、皆を感動させた。次にTと苦楽を共にしてきた直属の部下で、現在の中国部門長がスピーチ…彼女も途中感極まる場面があり、これも皆の心を揺り動かす。その後Tからのお礼の言葉が有り、皆からのプレゼント授与式となった。

プレゼントは、Tの30年間のキャリアから集めた「フォト・アルバム」と、「翡翠」のカフ・リンクス。この「翡翠」は中国で云う「JADE KING」に因み、Tの将来に祈りを込めた物である。揺らめくキャンドルの瞬きの合間に見えたTの眼が、赤く見えたのも当然だった程感動的なシーンであった。

メインの肉料理、「メダリオン・ステーキ・カベルネソース」が運ばれる。会社のキッチンで、此処迄の料理を23人分作るのは並大抵では無いと思うが、クリスティーズ・キッチン、流石である!メインの最中所々で、ナイフ等でグラスを叩く「チンチン」と云う音がし、何人かが立ち上がってお祝いとお別れのスピーチをする…簡単では有るが心の篭ったスピーチの数々…こう云う所がインテリ西洋人は素晴らしい。しかし、筆者が何よりも素晴らしいと思ったのは、実はこの長いディナー・テーブルに並んだ「人々」なのである。

この人々の共通項は「全員T自身に拠って選ばれた」事、そして全員(2人は「元」)がクリスティーズの社員で有ると云う事だが、例えば国籍も米・英・日・韓・中・仏、年齢も20代から70代、こう云っては何だが肌の色も白・黒・黄、社内の地位で云えば名誉会長・副会長からドアマン迄、何の分け隔て無く同じテーブルに着き、総額数十億の美術品が並ぶシックな部屋で、ディナーを共にしていると云う事実なのであった。

例えば日本の企業で、これ程高い地位の社員が退職する際に、ドアマンをこの様なディナーの席に呼ぶだろうか?名誉会長や副会長が、メール・レディとファースト・ネームで呼び合い、抱き合ったりするであろうか?これはもしかしたら、単に西洋的・英国的なのかも知れないが、非常に「クリスティーズ的」でも有ると云え、此処に筆者が18年間勤めているこの会社の「素晴らしさ」が有るのだ。

ディナー中、或るゲストがスピーチで「クリスティーズには2つの良い事と、1つ悪い事が有る」、と話し始めた。

「悪い事は、給料が決して良くない事。そして良い事は、それを我慢しても余り有る程、全世界の素晴らしい芸術作品を長い間『観て触る事』が出来ると云う事と、そしてそれをシェア出来る『家族』が『社内』に居る事だ」と話した。正にそうなのだ…クリスティーズの社員には、勿論独立してディーラーに為ったり、コンサルタントに為ったりする人も多いが、その反面、30年40年と勤める人も多い理由は、其処にしか無い。

デザートの「アップル・タルト・カルバドスクリーム添え」とコーヒーが運ばれる頃、筆者は18年目にして再び「この会社に入って、本当に良かった」と思い、廻って来た「Tに捧げられたアルバム」に、心を込めて署名をした。

華やかさと寂しさが同居したディナーも終わりに近づき、カメラマンがTとのスナップや集合写真を撮り、最後は握手と抱擁の連続でお開き。

そして筆者はと云うと、こんなディナーを催す事の出来る「会社」と「社内家族」に対しての新たなる誇りと愛情を感じながら、10時過ぎにロックフェラー・センターを後にし、ニューヨークの肌寒い夜の街を、しかしそれに負けない程の暖かな気持ちで、その晩のもう一つの予定へと急いだのだった。