「遺言」の執行:An Evening of Keith Jarrett−Solo Piano Improvisations@Carnegie Hall.

ゴールデン・グローブ賞は、予想通り「ソーシャル・ネットワーク」が4部門を獲った。

筆者はこの作品は、機内で観ようとしたが寝てしまった為観ていないので、何とも批評の仕様も無いが、昨日記した「The King's Speech」のコリン・ファースが、目出度く映画部門の主演男優賞をゲット…良かった、良かった。しかし、そもそも「ゴールデン・グローブ」よりも「S.A.G. AWARD」等の方が本格的な作品評価が際立ち、且つアカデミー賞の前哨戦に相応しい賞なので、これからも動きが色々と出てくるのだろう。

さて昨日の日曜日も、午後から出社し作品調査等のカタログに勤しむ。そして夜は、息も凍るような寒さの中、妻とカーネギー・ホールへ…キース・ジャレットのソロ・ピアノ・リサイタルを聴く為である。

カーネギーに着くと、玄関は大変な人だかりで、我々の席が有る3階の「Tier 2」のバルコニーから階下を見渡しても超満員である。この「Tier」の7、8番席は、高目のスツール席だが壁に寄りかかる事が出来る、飛行機で云えば「窓側」の様な席で妙に心地が良い。しかし、この心地良さが後刻我々にどんな影響を与えたのかは、今日のダイアリーを最後迄読めば、お判りになるだろう…。

流石ジャズ・ミュージシャンらしく、コンサートは定刻8時には始まらず、キースは15分遅れでステージに登場、先ずはピアノの横に設えられたスタンド・マイクでトーク。しかしこれは本当に必要なのだろうか?そして徐にピアノの前に座ると、暫く首を項垂れた後、1曲目を弾き始めた。

その1曲目は緊張感の有る、切なくも美しい曲で、前作「Testament(遺言)」を聴いている筆者は(拙ダイアリー:「大江健三郎キース・ジャレットの『TESTAMENT(遺言)』」参照)、成る程「『遺言』の執行」とはこう云う事か、と非常に納得する出来であった。そして2曲目からは…何と全く何も感じなかった所か、退屈の連続であったのだ。

確かにキースは、立ったり座ったり、呻いたり唄ったり、足でリズムを踏んだりと「いつもの」キースだったが、「臭い」ブギウギやブルース風の曲は何一つ耳新しくなく、静か目の曲も最近ラヴェルドビュッシーを聞きつくしている身には、これも「臭い」イージーリスニング・ミュージックを聴いている様で、余りにも物足りない。

「即興」は何時でも「水物」なので、良い時も悪い時も有ると云う事は充分判ってはいるが、45分間で7曲を終えた時点で会場に灯りが点り、事前に「今日の公演には、インターミッションは有りません」と聴いていた聴衆は、「これで終わりか?」と半信半疑で半ば怒りの拍手を以ってしてキースをステージに呼び出すが出て来ず、暫くしてアナウンスが「15分の休憩後、演奏を再開する」と告げ会場がざわめいたのだが、結局キースが再びステージの登場したのは、アナウンスから30分後であった。

そして再び演奏が始まったのだが、8−10曲目も前と同じ有様でガックリ…しかし、11曲目にやっと「光」が見えた!この曲は1曲目と共に、この晩唯一と云っても良い「祈り」が感じられる曲で誠に素晴しかったのだが、12曲目以降は再び退屈になり、長々とアンコールに応えた最後のスタンダード2曲、「Somebody is watching over me」と「Summertime」も含めて、残念ながら極めて退屈だったと云う他は無いステージであった。因みにこのリサイタルは録音され、将来CDとなるらしい…。

壁の有る角席に座っていた妻は「爆睡」、拍手の音で毎回起きる有様で、妻曰く「人生で最も退屈、且つ寝たコンサートの一つ」だったそうだ…評価を分かち合えて、夫としては嬉しいが(笑)。しかしキースは、「ケルン・コンサート」の鋭さも荒さも無く、インスピレーションも感じられず、恐らくその事は自分でも判っていたのでは想像するのだが、余りにも纏めようとし過ぎた感が有り、自らの不調を「曲数」で誤魔化したかの様にも見えてしまい、甚だ残念!

…だったのだが(正直、45分の段階で止めた方が良かったのでは無いか)、実は最も驚いた事は別に有って、それは超満員の聴衆の殆どが、この晩のキースの演奏に対して皆大喝采を送り、再三のアンコールを要求していた事だ…一体どうなっているのだろうか?と首を傾げっぱなしで有った。

そして我々は、延々と続くカーテン・コールを尻目にカーネギーを後にし、妻と不満タラタラで11時前に帰宅…この恨みは、火曜日夜に行くMSGでの「PRINCE」でリベンジしよう、と心に固く誓ったのであった。