革新の連続。

仕事も一段落着いた昨日は、日本でやり残している事をやる事に。そこで先ず朝は、三番町に在る小川美術館へ、「有元利夫展」を観に行った。

この小川美術館は、有元作品の取り扱いでも有名な、彌生画廊の美術館である。
有元利夫と云う作家は、以前此処でも述べたが(拙ダイアリー:「『花降る絵画』と『魂の力』」参照)、筆者に取っては、日本近代作家の中で唯一画集を買い、本棚に持つ作家なのだが、ここ何年かニューヨークや杉本博司さんの会、「ドマーニ」展等で、その息子さんに何度か会う機会も有ったりして、より有元作品に興味を持っているのも事実だ。

今回の展覧会も「花降る日」等の、眼に懐かしい名作揃い。しかし有元の描く人物の顔は、何処か能面の様で、観る者の気分に拠っては、悲しそうにも嬉しそうにも見えるから不思議だ。そして、そもそも「死」を感じるこの作家の作品には、しかしそれでも、何とも云えぬ安堵感が有り、癒される…「朝」には打って付けの展覧で有った。

三番町を後にすると、某大手出版社の部長氏と、銀座で打合せがてらのランチ…その方から、或る新刊本の企画を伺う。お手伝い出来れば良いが…。

ランチ後、今度は六本木に移動し、ミッドタウンの「21_21 Design Sight」で開催中の展覧会、「倉俣史朗エットレ・ソットサス展」へ。

デザイン音痴を自認する筆者も、倉俣作品は実は昔から好きで、以前倉俣と仕事をしていた三保谷硝子の三保谷氏にお会いした時も、倉俣とその作品に関して質問攻めにしてしまった程である…その節は、大変失礼してしまった。

倉俣の作品は、筆者の様に日本美術を扱う者には、時折非常に強いインパクトを与える。それは多分、倉俣自身が「侘び寂び」や「ミニマル」と云った概念と共に、伝統的日本美術の両輪を担う、「装飾性」や「原色彩」の、そして日本美術と呼ばれる「装飾道具」の、正当なる後継者だからなのかも知れない。

さて、展覧会の中で筆者の眼に抜群に良く映った作品は、「Bent Glass Table」と、何と云っても「Miss Blanche」である。特に1988年の作品「Miss Blanche」は、何度観ても素晴らしい作品で、或る意味「20世紀の琳派・薔薇散らし」とでも呼びたい様な、余りに美しい「椅子」なのだ。

アクリルに浮かぶ薔薇の造花は、儚く美しくも何処と無く淫靡で、その絶妙に配置された薔薇を散りばめたチェアは、観る者の眼を奪い尽くすセクシーな女性の様で、筆者等は「あぁ、座ってみたい、君に…」と溜め息を漏らすばかりである(笑)…欲しいっ!

そして夜は、流派の異なる若手シテ方能楽師のO氏とS氏、S氏の妹さんのMさんが、亡き叔母の稽古舞台を見学しに来訪。叔母の稽古舞台はビルの屋上にあり、嘗ては井上八千代さん等に、使って頂いた事もある。

見学後は4人で神楽坂に移動して、「来経」で食事。稽古舞台はと云うと、お二人とも気に入って頂けたようで、これで2つの異なる流派の能楽師が、1つの舞台でお互いを観ながら、ライヴァルとして切磋琢磨し、稽古出来る可能性が…誠に楽しみなお二人である。
食事中は、21世紀のお能の有り方や、イマドキの弟子の教育等の話で盛り上がる。聞く所に拠ると、最近は何と「謡本」を「i-Pad」に入れて使うお弟子さんが居るそうで、本を捲る変わりに、指で画面をサッと撫でて頁を捲るそうだ!

話だけ聞くと、「許せんっ!」てな感じだが、しかし良く考えてみると、ヴィデオが無い時代の能楽師は、ヴィデオを観て稽古したりする若い能役者を、快く思わなかったに相違無い…時代と云うヤツには、否が応でも対応せねばならないのだろうか。

しかし、彼らの様な若く柔軟な考えの能楽師達には、伝統を守りながらも、有元や倉俣の様な芸術的「革新」を期待したい。それは、伝統とは「革新の連続」に他なら無いからである。

さぁ、日本滞在も後1日…多忙な、しかし「超楽しみ」な最終日を迎える。