「男らしさ」と「男の世界」。

ハッピー・サンクス・ギヴィング、ニューヨーク!

京都での一昨日は、午前中、友人カップルのR&Cと合流し、伝狩野孝信の襖絵を観に龍安寺へ。

この織田信長の弟に拠って注文されたと思われる6面の襖絵は、昨年の筆者担当セールで、120年振りに元々の持ち主で有る龍安寺が買い戻した作品で有る(拙ダイアリー:「里帰りする『襖絵』」参照)。

筆者は、この襖絵には御縁が有って、この10年間に2度扱って居るのだが、二度目のセールで漸く「有るべき場所」に帰った訳で、この仕事を始めて以来、金銭面を度外視した、個人的にも嬉しい結果をもたらした仕事で有ったのだ。

さて龍安寺に着き、受付で担当の学芸員のIさんを呼び出そうとした時の事で有る。

ふと見ると、何処か見覚えの有る外人の顔が…あの若く可愛い女の子を連れているのは、同僚のフランス人で印象派部門の専門家のAでは無いか?

すると向こうも此方に気が付き、「マゴッ!」とビックリ…何故、今、此処に、ヤツが?ここ数日、筆者の偶然力に就いて書いて居たが、「またか…」で有る(笑)。

物凄い偶然に驚きながらも、結局6人で襖絵を観る事に。自分が扱った美術品との久々の、しかも「有るべき場所」での対面は、懐かしい友人、若しくは経験は無いが(笑)、嫁に出した娘に会う様で嬉しい。

Iさんの話に拠ると、再来年2013年の10月に、この龍安寺の六面、そしてメトロポリタン美術館とシアトル美術館が分蔵している、今判っているこの襖絵作品の「ツレ」(後、英国個人が数面所蔵)が一同に会する展覧会が、東博で開催されるとの事…この恐らく最初で最後の試み、今から本当に楽しみである!

同僚A夫婦に別れを告げ、龍安寺を後にすると、祇園に向かい、八坂神社前の「かづら清」や「伊藤文三郎商店」で買い物。

夕方には、或る分野のコレクションで、Rのライヴァルでも有るコレクター氏を訪ね、作品を拝見した後は5人揃ってディナーへ。

場所は元々歴史有るお茶屋を現代風に改造した、祇園のお店…目印は「鯰と鰻の巴紋」で有る。

創作料理を楽しみながら、美術品の話に花が咲かせていたら、此処でも旧知の美術商F氏がご夫妻で登場し、筆者の「偶然力」はこの日も未だ衰えず。

食後は、場所を老舗のお茶屋に移したが、これもラッキーこの上無い事に、眼のパッチリした大人気の舞妓、豆ゆりさんの「衿替(えりかえ)」(舞妓から芸妓に為る、2週間程の期間)の時期に当たり、その期間しか結わない特別な髪形「先笄」での、この時期しか舞わない特別な舞、「黒髪」を拝見する(拙ダイアリー:「先笄の黒髪」参照)。

この京都で最も歴史有るお茶屋の座敷には、江戸時代の屏風、味の有る柱や梁が居座り、その隙間隙間に数百年の長い間蓄積した男と女の欲望が、濃密な空気を生み出している。

そんな空気の中で観た「黒髪」は、来ない男を待ち焦がれる女の性を嫌が上でも増幅させ、我々を例えば大石内蔵助の時代へとタイム・スリップさせたので有った。

さて、この手の遊びには、時折女性からのフェミニスト論議が起こる。

お茶屋遊びは、男の為の『男尊女卑的権力』所有欲志向の極みで有る」、「男は、ああ云った場所(お茶屋)を『最高の男の世界』と位置付け、女性を金で操れると思い込み、その『最高の場』に身を置けると云うカネ・コネを持つ『成功者』としての自分に、ただ酔っているだけで有る」…等々。

しかし「お茶屋遊び」等と云う物は、そもそもその類いの物で有るし、例えばこの晩お邪魔したお茶屋さんが、その建築を含めてその道では最高且つ、江戸期以来の京都の伝統文化を残し続ける貴重な場所で有る事は、衆知の事実で有る。

また例えば、武原はんや井上八千代の舞を観た経験の有る、シビアな眼を持つ客からすれば(勿論筆者も観た事が有る)、数年しかキャリアのない舞妓や芸妓の舞や地方も、単に「バカ高いお座敷芸」にしか見えないかも知れない。

が、その若い舞妓や芸妓から、未来の武原はんが出て来るかも知れないと思えば、そして歴史的ショバ代と酒代、一見では入れないエクスクルーシヴ性を考えれば、確かに高額では有るが、一流のお茶屋での芸は「一見の価値」は確実に有ると思う。

しかし逆に云えば、今時これ程の「男の世界」(そう呼びたいので有れば)も珍しいのでは無いだろうか。
異論反論を覚悟で云えば、今の若い日本人男性が「男らしく無い」だの、「草食化」だの「女性化」だのとネガティヴに云われる背景には、こう云った場所やシステムの地位や機能の低下が、その要因の1つかも知れないと思わなくも無い。
もし貴方が女性で、清廉潔白で誠実、完璧なる男女平等主義者で肉食系なる、「男らしい」男子を求めて居るなら、それは幻想に過ぎない。

何故なら、貴女の思う「男らしさ」は、「男の世界」と同じ様に、幻想の賜物なのだから…。

東京への帰りの新幹線では、今度は旧知の西洋絵画ディーラーにバッタリ。筆者の「偶然力」は更に力を増している様だが、「男らしさ」とは何の関係も無い。
それに引き換え、車窓から見えた、漸く冠雪した富士山は、何故か実に「男らしく」見えたので有った。