人生の「銹」。

父の密葬も終わり、御厚情を頂いた方々への挨拶やお墓や遺品の事、3月頭に開催予定の「偲ぶ会」の準備、また国分寺の実家への往復等、中々気が休まる暇が無い。

さて遺品と云えば、大した美術品も持っていなかった父だが(学者として「欲しいモノ」は高過ぎて買えないし、逆に「買えるモノ」はクオリティが低過ぎていらない、と云っていた)、その昔或る方に頂いた一振の日本刀が有った。

延宝年間の年記と銘の有る白鞘の刀だったが、10年程前だろうか、そう云えば…と或る日父がその存在を思い出し、「警察に届けないと、銃刀法違反で捕まってしまう!」と恐れを為した我々は、警視庁「マル暴」に所属する親戚の刑事に同行を頼んで「発見届」を出し、無事「登録証」を取る事が出来た事も、今となっては微笑ましい想い出で有る。

その後、この刀は「保存刀剣」に指定され、家の「守り刀」として泥棒と闘う為に(笑)、父の書斎に置かれていた時期も有ったのだが、最近迄は神棚の下の物入れに収まっていた。

そして亡き父は、結局唯の一度もこの刀の手入れをせず、放ったらかしにしていたのだが、何故か昨年秋頃から「あの刀を売ろう」と云い続けていたのだ。

昨年から父が売ろう、整理しようと云っていた家の物は、実はこの刀だけでは無く、そう考えると人は何処と無く「象」の様に、自分の最期が近い事を察する能力が有るのかもれない。

そして実際そんな事を裏付ける様な、不思議な事が起きた。

父が倒れ、しかし未だ命が有った時、緊急帰国していた筆者は、母に「孫一、お願いだからあの刀を売ってきて」と頼まれた。母に拠ると、父はずっとあの刀を売る事を気に掛けていて、突然倒れた父の「遺言」の様に思っていたらしい。

両親の依頼を受けた筆者は、早速刀を携え、両親とも旧知の信頼出来る刀屋さんを訪ね観て貰うと、刀身は銹だらけで悲惨な状態…刀屋さん曰く、「この侭では値が付かないので、研がないと勿体無い」が、「2日後の市に出せる様、ウチで銹落としをやってみる」との事で有った。

さて、刀を刀屋さんに預けた後、父の容態が少々持ち直した為一度ニューヨークに帰り、その日に父が亡くなってしまったのは、以前此処に記した通りで有る。
そうして入札の受付が1月16日一杯、父が亡くなったのが17日未明…そして刀屋さんからの報告メールに有った落札金額を見て、筆者は眼を疑った…何故なら、そこに記された金額が、予想よりも遥かに良いモノで有ったからだ。

父の葬儀後、刀屋さんに驚きを以て尋ねると、「いやぁ、市の前の晩に店の皆で頑張ったら、銹が殆ど取れちゃったんですよ」と云い、しかもその最高値を付けた入札が入ったのが、16日の深夜の事だったと云う…身震いする様な話では無いか!?

こう為ると、成る程父は身辺整理を無意識の内に行っていた節が有るが、この刀も然り…父の居なくなった寂しさや悲しさは当然だが、彼の見事な「身の引き方」には、「オヌシ、やるな…」と云った敬意を払わずには居られない。

そして、この刀の話の経緯を考えると、父が「自分にはもう『守り刀』は必要ない」と考え、刀にこびり付いた、云ってみれば父自身の「人生の『銹』」を綺麗に落とした末、家族にお小遣いを遺して旅立って行ったとしか、筆者には到底思えないのだ。

自分も旅立つ時には、出来る限り「銹」を落としてから逝く様、心掛けよう…死して尚、父から学ぶ事だらけの孫一で有る。