忝なさに、涙零るる。

雪は全てを覆い隠す…汚い所も、喪失感も。

前の晩、実家の在る国分寺辺りにもかなり降り、雪景色が美しかった火曜の朝は、歯医者通いや都内ホテルで3月頭に開催を予定している亡き父の「偲ぶ会」の打ち合わせ、実家への往き来等の合間に、どうしても何処かの展覧会を観たくなった。

そしてその為に、「或る理由」を以てして選んだ展覧会が、今菊池寛実記念智美術館で開催中の「金重有邦 生まれくるもの」展で有った。

この展覧会は、現代備前作家金重有邦氏の、この10年間に制作された茶陶を中心とする作品を展覧する。

伊部水指や甕、壺や花入、茶入にも新しい造形が見出せるが、特に「花器」の連作シリーズは、何処か縄文や弥生の土器、若しくは埴輪を思い出させ、古代の素朴な祈りの香りがして、作家の創造的新境地を強く感じさせた。

しかし何と云っても筆者が驚き、大層気に入ったのは、昨年制作された3碗の大振りな伊部茶碗で、トラディショナルな造形では有るが、荒々しい土肌に、今迄の備前焼から一歩も二歩も踏み出した焼きと釉調が本当に魅力的で、この3碗には「欲しい!」、「この茶碗で一服呑みたい…」とマジに涎が出た(笑)。

さて此処で、上に述べた「或る理由」とは何だったかを説明せねば為らないだろう。

それは筆者の家族も、お父上の素山氏や叔父上の陶陽氏の代からお付き合いの有る有邦氏が、昨年お母様、そして夫人を一週間の内に相次いで亡くされたと云う事。しかし、最近母と妻を亡くした作家の作品を、数日前に父を亡くした者が観たかった理由は、悲しみを共有したいと云った理由では決して無い…展覧会のタイトル通り、新しく「生まれくるもの」を見付ける為で有ったのだ。

そう云った意味でも有邦氏は、お母様と奥様を失った時はさぞ気を落とされ、何れ程悲しかっただろうかと思うが、この3碗を見ると、有邦氏のこれからの作陶が今迄以上に力強く、また新たなる創意に充ち溢れたモノに為ると云う事の、決定的証拠と云える程に素晴らしい作品で有り、正しく「生まれくるもの」に相応しい物で有った。

そして昨日は、昼前から「お茶」に招かれた。

楽天的な筆者の人生に於いて、真の「癒し」が必要だと思う時は正直それ程多くは無いのだが、こと「お茶」に関して云えば、その数少ない「癒し」が必要な時に、必ずタイミング良くお茶の機会が自分に訪れる事が、実に不思議でならない。

今回は、父の逝去を知った或る大事な友が、本当に心を込めて室礼をし、道具を選び、茶を練り、点ててくれたのだが、「一客一亭」でお茶を頂いた事で、口に出す言葉はもとより、眼を見合っただけでも心が通い合う気がした、稀有なる茶の経験と為ったので有った。

西行では無いが、当に「忝なさに、涙零るる」とはこの事で、恐らくは利休も良くしたで有ろう、この「サシ」の茶では、元来言葉等一切発せられ無かったのでは、とさえ思う。

相手を思う気持ちは、松籟と共にその相手に伝わり、2人で廻し飲む濃茶は、その確認作業と為る…しかしこの日のお茶は、茶室には2人きりだったにも関わらず、客側としては亡き父と筆者の2人で頂いた、謂わば「二客一亭」のお茶では無かったか、との想いも有った。

が、お茶が終わる頃、その友に「父が亡くなったのに、悲しい気持ちが湧かないのだが…」と伝えると、友は「それはもう、貴方と父上が一体化しているからではないか…父上を『失った』と云うよりも、既に自分に『取り込んだ』が故に、悲しく無いのではないか?」と応えた。

友の点ててくれた、素晴らしく美味しかったお茶とその答えを聴くと、茶室を出る頃には、張り詰めていた肩の重荷がスッカリ取れ、そして嘗て良く知っていた「何事か」が、筆者の体内に静かにセットされた気がした。


何事の おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる     西行法師


感謝してもし切れない程に癒された、友とのひと時で有った。