却下される「訴え」: Shirin Neshat's "OverRuled."

グラミー賞授賞式の前日の今日、筆者の丁度10日後に生まれた天才シンガー、ホイットニー・ヒューストンビバリーヒルズのホテルで亡くなった。今日は、彼女の曲の中で最も好きだった「Saving all my love for you」を思い浮かべながら、このダイアリーを記そうと思う。

昨日2月11日は、我が国の「建国記念日」。

しかし今の日本に、この日を祝ったり感謝したりする人がどれ程居るのだろう…。

日本人が今世界の中でも非常に裕福に、そして何よりも「自由」に生きて居られる事が、恰も自然且つ当然で有ると思っているならば、日本人はこの国に住む有り難みを、今一度噛み締めた方が良い。

そして、正しい意味での「愛国心」、つまり日本人である事の「アイデンティティー」を学び考え直さねば、今謳歌している「自由」ですら、将来その存在の保証は無いのだと云う事を忘れてはならない。

さて、最終的に気温がマイナス4度まで下がり、小雪のちらついた昨日土曜日は、時差ボケで朝3時半に起きたゲル妻の、ボリボリ、バリバリと云う凄まじい「おかき」を噛み砕く音で始まった。

そして家中に響いていたその「騒音」も収まり、朝食とお抹茶を頂き終わった頃、より静けさを増した窓の外を見てみると、雪が恐ろしくゆっくりと風に舞っていて、暫しそのスローモーションの動きに見惚れて居た。

その午後からは、今日で終わってしまう幾つかの展覧会を観る為に、ゲル妻と久々のチェルシーへ。

全世界のGagosian(チェルシーには2軒)で一斉開催していると云うハーストの展覧会「The Complete Spot Paintings 1986-2011」、Mary Booneで開催されているエリック・フィシェルの「Portraits」、Chambers Fine Artでのアイ・ウェイウェイと他2人の「Ai Weiwei, Wang Xingwei and Ding Yi」、そしてDavid Zwirnerでの河原温の展覧会「Date Painting(s) in New York and 136 Other Cites」を観た後は、この日一番のお目当て、Gladstone Galleryで開催されているシリン・ネシャットのショウ、「The Book of Kings」へと向かった。

シリンはイランの生まれ…70年代にアメリカに移り住み、今はニューヨークで活躍する、映画祭等でも受賞経験の有る世界的映画・ヴィデオ・写真作家である。

そして彼女の作品は、観る者に何時でも社会的、或いは政治的問題を投げ掛け、アラブの政治体制やジェンダーの状況を世界に訴え続ける、彼女は謂わば「闘う」アーティストなのだ。

さて今回の展覧会、写真作品の方は3部構成と為っており、10ー11世紀に活躍したペルシャの詩人、Ferdowsiの「王達の書」にインスパイアされた物で、イランの若者達のポートレイトに「詩」とドローイングを施した作品群と為っている。

そして、このポートレイト作品にも非常に美しい作品が有るのだが、しかしこの展覧会の白眉は、何と云ってもビデオ・インスタレーション作品「OverRuled」で有った。

この「OverRuled」と云う作品は、近年稀にみる本当に素晴らしい作品で、10分15秒と云う時間、筆者を一時も飽きさせない緊迫感に充ちた、3面のヴィデオ・インスタレーション作品。

作品が始まると、中央の大画面に「判事」と書物を運ぶ書記官達が映し出され、其処で「審判」が始まる。そしてその映像は、光と陰影に彩られた、まるでレンブラントの絵画の様に、静かでは有るが、途徹も無く美しく意思の強いモノクロームの世界なのだ。

その両側の小画面には、「You cannot understand because you're not in water」と「訴え」を興すべき楽器を持った男性ミュージシャンと女性シンガーが映し出され、イラン現代詩人に依る詩と曲を奏で吟い始めるのだが、この曲と詩が極めて示唆的で、本当に悲しく美しい。

そしてこの映像作品は、判事が机に集め積まれた書物を叩き落として「訴え」を却下(overruled)し、歌も作品も終焉を迎える。

さてこの作品を観ると、今のアラブ、そしてイランの政治体制に無くて、我が国に有る「或るモノ」を思わずには居られない。

自明だが、その「或るモノ」とは「自由」で有る。しかし、その「自由」と云うモノは当然の様に「其処に有るモノ」では無く、我々自らが「手に入れるモノ」である、と云う事を、この作品を観ると痛感するのだ。

そして逆に、今の日本に無い物は何かと考えると、それは「自由」を渇望する程に、そして体制と闘う程に崇高で力強く、精神性の高い緊迫感を持つ「芸術」なのかも知れない、と思うのだ。

実はシリンはゲル妻の「アフリカン・ダンス」仲間なのだが、普段は地味で肩に全く力の入っていない、しかしこの「OverRuled」の様な作品を作るアラブの女性アーティストが、「アフリカン・ダンス」と云うこの世で最も激しいダンスを選んだには「理由」がある。

その「理由」を判る人が、今日本に、そして世界の現代美術家達に、一体何れ位居るのだろうか…今日筆者は、特に疑問に思っているので有る。