「探究装置」。

しかし桜と云う植物は、何故こんなに狂った様に咲くのだろう。

「狂い咲き」とは良く云った物で、余りのマッシヴで狂おしい咲き方に怖くなるのだが、それは下に埋まっている「死体」の所為なのか、はたまた其処から得られる「生」の養分の所為なのか…。

そして「散る」事が判って居るだけに、その「美しき狂気」に自分がシンクロしてしまうと、図らずも自分を見失って仕舞う様な気がして、恐ろしく為るのだ…。

さて「花」と共に、今回の来日中に観ようと思っていて、幸運にもそれが叶った事の1つに、或るアーティストを追ったドキュメンタリー・フィルムと、そのアーティストに拠る展覧会が有った。

そのアーティストとは現代美術家杉本博司、映画は「はじまりの記憶」、展覧会は「ハダカから被服へ」で有る。

先ずは、原美術館で開催中の「杉本博司 ハダカから被服へ」展。

筆者に取っては懐かしい再会と為った、榎本千加俊の「千人針」から始まるこの展覧会は、人間が裸で生きた太古の時代から現代迄、何故人類には「服」が必要で、服と云う「仮面」を付けねばならないか、また肉体と服、そして近代性との関係を過去のシリーズ作品から探究する。

そしてその中でも興味深かったのが、「和製ブランドの殴り込み的パリコレ登場」のコーナーで有った。

其処では、杉本が撮る事に因って新たなる意味付けのされた、三宅一生山本耀司川久保玲と云う天才的日本人デザイナー達の非常に斬新且つ美しい作品を観る事に拠って、如何に「服」と云うモノが自己を秘する「仮面」で有り、守る「鎧」で有るかを、「日本人の『眼』と『技』」を以てして感じる事が出来る。

「服」は我々の「躰」を秘す…それは自己と躰の歴史の、杉本が良く口にする「捏造」に他ならない。

そして青山の「イメージ・フォーラム」で上映中の、中村佑子監督作品「はじまりの記憶」。

本作は、杉本が自身の最新作「海景五輪塔」を、チェルシーのペース・ギャラリーでインストールする冒頭場面から、終の住処と決めた「小田原文化財団」の硬質硝子能舞台に就いて語るラスト・シーン迄、作家自身と作品、そしてその制作思想を余す所無く観者に伝える。

ニューヨークに移り住んで数十年…古美術商を経て、日本との往き来を繰り返すアーティストの此処数年の活動は、一部の人が云う様な「右翼化」と云うよりは「純日本人化」として、いや「純人類化」として、この世の森羅万象の「はじまり」を探究すると云う意味での「先鋭化」をしていると思うのだが、この「はじまりの記憶」はそのプロセスを、我々に十二分に明かしてくれるのだ。

本作のラストで杉本自身に拠って語られる、人生に於ける「最初の記憶」(=幼少期に電車から見た小田原の「海景」)のパートは、誠に美しい…そしてその「記憶」は、杉本博司と云う名の「探究装置」の「生」と「創造」の養分なので有る。

これからも「探究装置」としての杉本博司に期待させるに十分な、2つのイヴェントで有った。

そして筆者は今、成田のラウンジに来ている…久々に観た、余りに美しかった日本の花と春とに別れを告げ、再びニューヨークへの機上の人と為る。

「北」からのミサイルが、今日のフライトに命中しない様、祈るばかりだ。