"NYFF50 Diary" Part IV:「仁義」のロード・ムービー。

寒くなった先週末のニューヨーク…裏千家からの「炉開き」の案内と共に、毎日点てて飲む御抹茶の、茶碗から立ち昇る湯気もクッキリと綺麗に見える様に為った。

そんな土曜日は、クサマヨイが未だ観て居ないと云うのでメトロポリタン美術館へと赴き、先ずは日本美術ギャラリーにて、琳派展「Designing Nature」(→http://www.metmuseum.org/exhibitions/listings/2012/rinpa-aesthetic)を再び観る。

根っからの神道美術ファンとしては、女神と武装神像の神像2体や、春日宮曼荼羅、春日若宮像等を改めてシミジミと鑑賞した後、今度は特別展ギャラリーのウォーホル展へと歩を早めた。

さて、以前に1度観たこの「Regarding Warhol:60 Artists 50 Years」(→http://www.metmuseum.org/exhibitions/listings/2012/regarding-warhol)、クサマヨイと再び観る事に拠って何か感想が変わるかと思ったが、残念ながらそうは行かなかった…要は2度目に観ても、ハッキリ云って全く面白く無かったので有る。

本展には、確かにウォーホルを始めクーンズやバスキア等、名立たる作家達のマスターピースが出展されては居る…が、先ず何しろ作品数が多過ぎて、何処かオークションの下見会を観ている様な錯覚に陥る程、雑多な感じがしてしまう。

その出展アーティストは超豪華で、上記アーティスト以外にも、マシュー・バーニーアイ・ウェイウェイから、アヴェドン、シュナーベル、へリング、クローズ、カッツ、バンクシー、ダグラス・ゴードン、グルスキー、シャーマン、ギルバート&ジョージ、ゴンザレス=トレス、そして杉本博司村上隆に至る迄、メジャー作家達の作品ばかり。

また、その構成にも苦心の後が見えるが、上に記した様な感想を和らげるには至らず、唯一成る程と思ったのは、杉本の「Fidel Castro, 2001」が「Portaiture: Celebrity and Power」のセクションに展示され、村上の「Kaikai Kiki, 2001」が「No Boundaries: Business, Collaborations, and Spectacle」のセクションに展示されて居た事で、本展覧会のその構成も予想が付くだろうと思う。

が、その作品と作家数の余りの多さに、まるで脚本の拙さを誤魔化す為のオールスター・キャストのパニック映画か、若しくは「今日お出ししたモノは、全て『大名品』で御座います」的な、仄かな高慢が鼻に点く茶事に呼ばれたが如き、豪華だが味の無い展覧会と云うべきか。

全く以て残念だが、現代美術史の勉強には為ると思うし、この秋の「ウォーホル財団セール」を含めた現代美術オークションの「予習」としては最適なので、1度は訪れて見るのも良かろうと思う。

さて 、METを後にしたその夜は友人のアーティストI氏を誘い出し、今年の「NYFF」個人的最後の1本と為る、北野武監督の新作「Outrage Beyond (アウトレイジ・ビヨンド)」(→http://www.filmlinc.com/nyff2012/films/outrage-beyond)をリンカーン・センターで観る。

実はこの北野作品は「NYFF50」の正式出品作では無く、フェスティヴァル中の「Midnight Film」と云う特別企画の内の1本で、夜9時過ぎからの上映…なので、オジサンな我々は「腹が減っては『ヤクザ』に為れぬ!」と云う事で、ミッドタウン・ウエストに出来た「寺川ラーメン」で待ち合わせをし、「出入り」前の腹拵えをする事に。

実は、上に「ヤクザに為る」と書いたのには理由が有る。

以前、筆者が「ヤクザ映画」が好きな事は此処に記したが(拙ダイアリー:「『孫一、危機一髪』の巻」参照 )、この晩一緒に観たI氏も筆者に負けず劣らずの「ヤクザ映画」好きで、ニューヨークで「ヤクザ映画」と来れば彼と観る、と相場は決まって居るのだが、そのI氏との鑑賞後はと云うと、 劇場から出て来た我々は眉間に皺を寄せて肩を怒らせ、何の危険も無いのにも係わらず目を細めて辺りを見渡し、「ワシら、今迄画面に映っちょったからなぁ…ナメたらあかんぜよ、ウラァ!」的人格に、「毎回」変貌するからなのだ(笑)。

ニンニク・フレーク、胡麻と胡椒をタップリ振り掛け、チャーシューを追加して根性を入れた(笑)旨いトンコツ・ラーメンを食べ、「ヤクザ映画」仕様人格変貌への体制を万全に整えると、涼しい風の中リンカーン・センターへと向かう。

会場に着くと、日本人・外人を織り交ぜた列が既に出来て居て、北野作品の人気が伺えた…満員の劇場舞台でのNYFFの役員の挨拶の後、愈々上映開始。

そして、此処に内容は詳しく記さないが、観終わった今この作品を一言で云うならば、此れは北野流「仁義の道」を極める為の、男の「『極道』ロード・ムービー」で有った!

それは、前作からの続篇で有る事や登場人物の継続性を傍に置いても、たけし演じる前作で死んだ筈だった大友が「仁義の道」を極める(つまり「極道」だ)迄の道程が、本作の最も大きなテーマだからなのだが、何しろ「女」が殆ど出て来ず、出て来る男もその6-7割は死体と化すストーリーの中で、そのテーマを支える俳優陣が此れまた素晴らしい。

先ずはやはり、主演のたけし…彼の演技は非常に抑え目で、重みすら感じる…昔気質の年老いたヤクザは、修羅場の潜り方が違うので、何しろ面構えと気迫が其処いらの今時のチンピラやインテリ・ヤクザと違うのは当然だが、たけしの顔は年を経る毎にそれに近付いている。

またもう1人本作での名優挙げれば、それは何と云っても加瀬亮だろう!彼の演技は、今回のNYFFでもキアロスタミ監督の「Like Someone in Love」(拙ダイアリー:「NYFF50 Diary" Part II:『本』と『女』の共通点とは」参照)でも既に証明されて居るが、本作での「小物・若僧・裏切り・成り上がり・経済ヤクザ・お漏らし」と云う「仁義の道」からは程遠い役柄を、見事に演じている。序でに云えば強面で怒鳴りっ放しの塩見三省も、何故か他人とは思えない(笑)。

が、その他にも、殆ど台詞の無い見応えの有る「脇」が2人居て、それは韓国系フィクサーの側近を務める白竜と、殺し屋役の高橋克典だ。

白竜と云う人は、何しろ「寡黙」が似合う面構えの良い珍しい役者で、ああ云う男が側近に居ると、ボスはマジに心強いだろう。そして、克典…克典は何を隠そう学生時代の友人で、皆で良くディスコやカラオケに行ったりした物だが、ミュージシャン志望だった彼はカラオケでも寝そべって、学校の後輩だった「尾崎」を歌うのが好きな、本当に性格の良い奴で有る。が、今回の一言も口をきかない殺し屋の役は、謙さんと共演した「新・仁義なき戦い/謀殺」での経済ヤクザ役位カッコ良く、クールで有った!

前作よりも予算も掛けたこの「ビヨンド」、しかし流石に拘ったカットも数々有って、例えば小日向演じるマル暴刑事片岡が大友をムショに訪ねるシーンで、ドアのガラスにボンヤリと映る2人の姿が次第にハッキリと見えて来る所や、人が通り終わっても固定されたカメラが余韻を残しながら背景を撮り続ける手法、また終盤の見せ場である、パチンコ屋で大友が引退した親分加藤(三浦友和)のタマを獲るシーンに至っては、スローモーションで、大友のドスが加藤の腹を突き抉る音だけで観せる。

本作は最期、「菊次郎だよ!」的カタルシスを以て終わるのだが、続篇の可能性を残して居るので、今後どうなるか…が、個人的には此処で完結する方が、北野作品らしくて良いと思うのだが、如何だろう。

映画が終わり、劇場を出てI氏に別れを告げると、寒風の中マフラーを締め直し、10番街を歩き始めた。

ワシが肩怒らせ、眉間に皺寄せて眼を細め、ワシを狙う鉄砲玉なんぞ誰も居らんっちゅうに、辺りを注意して見渡して、持ってもいないチャカを懐に握り締めた気分でウチに帰るんを急いだっちゅう事ぁ、ワレらには云う迄も無いんじゃけんのぉ(「文太」風に:笑)。