「風格」と云う名の馨り:マウリツィオ・ポリーニ@カーネギー・ホール。

今日は先ずは、「世界最速・最高の『6コース・ディナー』」を紹介しよう。

以前此処で「ブーレイ」のディナーを紹介したが(拙ダイアリー:「ディヴィッド・ブーレイの奇跡」参照)、今日此処に紹介する「ディナー」はニューヨークでしか味わえない、そして「ブーレイ」に勝るとも劣らぬ、「一世一代のディナー」で有る…篤とご賞味(御覧)有れ(→http://youtu.be/2BDZFPpLMRU)…因みにヴィデオに出演している「Maitre d'hôtel」は、筆者の元同僚で有る!

さて、逃亡して居たボストンのテロリストが、漸く逮捕された。

此方のニュースでもその映像が繰り返し放映されて居る様に、赤外線センサーでの発見、ロボット・アームに拠る捜索、そして照明弾の発砲に拠る拘束だが、まるで「ゼロ・ダーク・サーティ」か何かの映画を観ている様で、何事も「劇場化」して居るアメリカに戦慄する。

そんな帰米の機内では、アンソニー・ホプキンスが巨匠役を演じた「ヒッチコック」と、香港警察映画「寒戦/Cold War」を観た。

何方もそこそこの出来の作品だったが、「ヒッチコック」では、ヒッチの妻役のヘレン・ミレンが本当に素晴らしい役者だと云う事を再認識した事と、驚くべき事の多い「サイコ」の舞台裏を知った事が収穫だったが、個人的にヒッチコックは「裏窓」と「ダイヤルMを廻せ」が最高傑作だと思う。

対する「Cold War」…端的に云えば香港版「踊る大捜査線 + 相棒」だが、脚本やスピード感は比べる迄も無く「踊る」等より此方の方が、圧倒的に素晴らしい。こう云う作品を観ると、日本のテレビ的映画作品が余りに子供染みて居て、ウンザリする。

そうこうして着いたニューヨークでの初晩は、仮眠後、生前大変御世話に為ったニューヨーク裏千家出張所元所長、故山田尚先生を偲ぶ食事会に出席の為、先生が大好きだったミッドタウン・イーストのステーキ・ハウス「S」へ…織物作家のU女史を始め、コロンビア大名誉教授のM先生、修復家A氏夫妻、裏千家のH先生等14人が集まり、先生を偲んだ。

そして日曜はイヴェント満載で、夜は作曲家Aちゃんのバースデー・ディナーを、トライベッカの焼肉屋の「T」で。ミュージシャン3人を含む総勢7人での、連夜の「肉々しいディナー」(笑)を楽しんだ…が、今日のテーマはその昼に遡る。

実はこの日の昼には、写真家G氏主宰の毎年恒例「花見@セントラル・パーク」が有ったのだが、残念な事に楽しみにして居た或るコンサートと重なって仕舞い、参加叶わず…そのコンサートとは、マウリツィオ・ポリーニのピアノ・ソロ@カーネギー・ホールで有った。

筆者がカーネギーポリーニを聴くのは、3年振り(拙ダイアリー:「『カーネギー』で零れた涙」参照)。前回「オール・ショパン」だったプログラムは、今回は前半がショパンで、後半がドビュッシーと為って居る。

満員のカーネギーの「Tier 1」のバルコニーに入り、ポリーニを正面から眺める席に着き暫くすると、万雷の拍手に迎えられてポリーニが登場し、「前奏曲嬰ハ短調 作品45」を弾き始めた。

その後はバラード、「第2番へ長調 作品38」と「第3番イ長調 作品47」の2曲が続いたが、何しろ単音の美しさと、時に軽やかで時に情熱的な、流れる様な演奏の美しさは筆舌に尽くし難い…最近ポリーニに関して、衰えや「前世紀の遺物」的な評価を聞く事も多いが何のその、特にカーネギーで聴き見る彼の瑞々しい演奏は、当に王者のそれで有った!

バラードの後も、「マズルカ第22-25番 作品33」と「スケルツォ第3番嬰ハ短調 作品39」と素晴らしくも凄い演奏は続き、前半が終了…その後インターミッションを挟んで、後半はドビュッシー前奏曲集第1巻」の全12曲。

が、ポリーニドビュッシーは、正直何処かイマイチ且つ時差ボケも手伝い、筆者は少々舟を漕いでしまったのだが、アンコールの3曲はこれまた驚異的に素晴らしく、それは矢張りショパンで、特に最後の最後に弾いた「バラード第1番ト短調」には、筆者の涙腺は一溜まりも無かった。

永遠とも思える盛大なカーテン・コールを受けて、その度に扉の裏でペットボトルの水を一口飲み、スタスタと歩いて出て来るポリーニを見て思ったのだが、確かに70を過ぎた彼は、或る意味「ヴィンテージ・ワイン」の如き存在で、値段も高く美味しいが、新鮮さや突拍子も無い面白さには欠けるかも知れない。

だが、カーネギーのシンプルで瀟洒な古城の広間の様な巨大な空間で、地味な背広に小柄な体を包み、両腕を余り振らず、一寸猫背の姿勢で、荘厳な装飾の舞台にポツンと置かれた黒のスタインウェイに向かってスタスタと歩み寄り、左手をピアノに掛け腰を折って挨拶するポリーニは、まるでその城の「執事」の様にしか見えないが、椅子に座り一度鍵盤に触れると、その「執事」は一瞬の内に「城主」へと変貌するのだ!…奇を衒わず、質素で堅実なヨーロッパの貴族的「風格」とは、こう云う事では無いかと思う。

ポリーニの奏でるショパンは、今でも世界最高の音楽の逸品で有る。

そしてポリーニショパンカーネギーが醸し出す「ヴィンテージ・ワイン」の馨りは、最高の音楽に「風格」と云うエッセンスを与える、稀有な体験その物なのだ。