六代目の性根:「怪談乳房榎」@Rose Theater。

物凄い雷雨と好天が、交互にやって来たニューヨーク…そして我がブラジルは、何と7ー1の大差でドイツに敗れて仕舞った。

地元開催のW杯準決勝で、で有る…ネイマール抜きとは云え、何と情けない!南米やアフリカのチームには、緊張の糸がブチ切れてパニクり、試合を滅茶苦茶にして仕舞う事が偶に有る物だが、観客も情けないやら悔しいやら、悲しいやらで泣いて居たし、リオ等では放火や略奪も起きて居ると聞く。サッカー王国の国民としたら、「そりゃ、無いよ…」的遣る瀬無い気持ちだったに違いない。

こう為ると、「ジャーマン・サッカー嫌い」(イビチャ・オシムも「走るだけなら、陸上をやった方が良い」と評している)の僕の最後の望みはメッシだが…と、切りが無いので此処で話は遡り、先週末土曜の夜は、オランダ対コスタリカ戦をPK戦での決着迄観た後、Chim↑Pomのレクチャーを聞きに、イースト・ヴィレッジの「Bruce High Quality Foundation」に急いだ。

今回のこのイヴェントは「Godzirat」と題され、彼らの剥製作品「スーパーラット〜ゴジラ」の展示、そして特別編集映画「スーパーラット」の上映と、日本から来ていたChim↑Pomのリーダー卯城氏に拠る楽しいレクチャーで構成された。

Chim↑Pomの作品は、現在チェルシーのギャラリーFriedman Bendaで開催中の展覧会「Duality of Exhistance - Post Fukushima」でも、ヨゼフ・ボイスの作品「コヨーテ 私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」へのオマージュ・ヴィデオ・インスタレーションが展示されているので、そちらも是非ご覧頂きたい。

そんなこんなでバタバタし、一寸体調を崩して仕舞った日曜日は家でゆっくりと休んだお陰で、立ち直った月曜の夜は、「平成中村座」の公演初日を観にリンカーン・センターのローズ・シアターへ。

思った以上に日米の観客でごった返すシアターに着き、この晩一緒に観劇した日頃お世話になって居るグラフィック・デザイナーMさんと現代美術家Iを待って居る間は、友人知人、松竹の方々とご挨拶。その後4人揃って席に着くと、何と「会長」の隣で吃驚する。

が、今回の公演を観終わった今、今日のダイアリーが辛口に為らざるを得ないのが、残念極まりない…。

さて今回の演目「怪談乳房榎」は、三遊亭圓朝作の落語が元に為っている単純明快な物語。

元武士の絵師菱川重信(菱川師宣と西村重信=石川豊信の合成だ!)に弟子入りした、公金横領をして浪人に身をやつして居るこれも元武士の浪江は、重信の妻に横恋慕した上、女と家を手に入れる為に小間使い正介を脅迫して共犯にし、重信を殺害、その上正介に赤ん坊真与太郎(マヨタロウ!)を滝壺に落として殺す様強要するが、滝に重信の幽霊が現れ、正介は子を助けて育てる様約束する。

そして数年後、妻と子が祟られた浪江が病気治癒にご利益の有ると云う榎にお参りに来ると、其処で茶屋を営む正介と育った真与太郎に偶然出会い、仇を討たれると云う「因果応報」「勧善懲悪」の典型的なストーリーだ。

今回の舞台は「早替わり」「仇討ち」「幽霊」、そして「本物の滝」がフィーチャーされ、謂わば「外人向け」のストーリーと舞台装置を用意したのだろうが、残念ながらその全てが活きて居なかった。

そしてその最大の理由は、ぶっちゃけ主演の2人の演技に有った様に思う…こう云うストレートな演出だと、役者が役の「性根」(しょうね)を掴んでいなければ、「ケレン」だけの表面的な舞台に為って仕舞うからだ。

先ず中村屋は、早替わり等本当に一所懸命演じたとは思うが、声が良く出て居なかった上に勘九郎本人の個性が見えず、「家の芸」とは云え、亡き父のコピーにしか見えなかったのが無念。

敵役の萬屋も台詞廻しがイマイチで、悪役の魅力と存在感に欠けて居て、精彩が無かった。が、こう云った不具合は、観客の所為も有ったのかも知れない…。

何故なら特に初めの頃、観客の多くは、恐らくは中村屋の「早替わり」に気付か無かった様だし(一瞬の内に、衣装と役が入れ替わって居る事に気付かず、拍手も起きない)、其の事を考えると、開演前にその「早業」に注視する様、誰かアナウンスをすべきだったのかも知れない。

そして、こう云った不具合は「初日」と云う緊張感、舞台や「間」が未だこなれて居ない等の理由も有ろうが、幕間の中途半端な余り笑えない英語寸劇も含めて構成が全体的に緩く、演技は固いが緊張感に欠ける舞台と為って仕舞って居た、と云うのが正直な処だ。

…が、それは言い訳には為らない。何故なら、亡き十三代目率いる「平成中村座」の2004年ニューヨーク公演で演じられた「夏祭浪速鑑」は、役者の演技・演出共に今回とは比べ物に為らない程に、素晴らしかったのだから!

厳しい様だが、日本の歌舞伎、いや古典芸能を代表してニューヨークに来る「平成中村座」に、重責と期待が課せられるのは当然。そしてそれは、単なる世界の「一地方芸能」としてでは無く、世界の誰もが感動し共感する舞台を作って来なければ、ニューヨークで公演をする意味は無い。

そう云った意味で、勘九郎丈には一層の精進を期待したいし、それが出来る器で有ると思う…早く親父の「幽霊(レガシー)」を振り払って、自分自身の正真正銘の「性根」を掴み、嘗て観た事の無い、新しい「中村勘九郎」に為って欲しい。

ニューヨーク公演は、未だ始まったばかりだ…ガンバレ、六代目!