「境界」。

最近友人から日本の「レキシ」に就て学んだ。

が、「レキシ」と云っても「歴史」では無く、アフロ・ヘアーの日本人ミュージシャンの事…彼の曲の歌詞やタイトルは「歴史」に基づいたモノで、ファンキーな曲に乗って歌われるのが面白い。此処に「キラキラ武士」のPV(→https://m.youtube.com/watch?v=Mzkf1OGgSz8)を添付するので、御一聴あれ。

さて、此の所東京五輪ロゴマークの盗用問題が騒がれて居るが、アートの仕事を始める前に大手広告代理店で働いて居た身としては、当該デザイナー氏を擁護する気には一寸為れない。

代理店のみならず広告界のグラフィック・デザイナー達は、ロゴマークの制作を請け負った場合、クリエイティヴ局の本棚にズラリと並んだ、例えば「世界のロゴマーク集」と云った画集を必ず見る。

それは過去の優れたデザインからインスパイアされる事が目的なのだが、然し人間の脳の重要な仕事の1つは「記憶する」と云う事なので、意識的無意識的に関わらず、ピンと来たデザインがデザイナーの脳裏に残る事は避けられない。

が然し、嘗て目にしたデザインに拘泥せずに如何に斬新な作品を創り出せるかが、当然優秀なデザイナーの才能と実力なのだから、先ず以って誰かに短時間で類似性を指摘される事自体、そのデザインの脆弱性とデザイナーの資質の低さを証明して居るに他為らない。

そして思うに、これだけ世界からこの速さで盗作疑惑が噴出するレヴェルのデザイナーを先ずは解雇し、現デザインを早急に取り下げ、再公募するなりの対応をせねば為らないのにも関わらず、全く動く気配が無いIOCこそ今回の事件の最大の責任者では無いか。発表後間髪を入れず、世界から「ソックリだ」と云われる五輪ロゴ等、国辱モノで有る。

オリンピックのヨットレースを見に来る観客の為に、逗子で建築予定の高層ホテルへの反対運動を含めて、本当に憂鬱な東京五輪の準備の混乱…こんな事で大丈夫なのだろうか?と思いつつ、先週の僕は北陸出張等の仕事を熟して居たが、夜の方も多忙を極めた。

某美術館学芸員T女史を顕彰する恒例のT会は、ギャラリストやコレクター等の何時ものメンバーが集まり、今回は暗闇坂和食店を持つオーナー・シェフが最近始め、実力派陶芸家U氏がその店名を書した、麻布十番の「K」で盛り上がる。

また友人のプライヴェート・バースデー・パーティーでは、名作映画「猟奇的な彼女」のモデルで、今年のヴェニスビエンナーレの韓国館代表のビデオ・インスタレーションもプロモートしたと云う韓国人女性映画プロデューサーや、某民放TV局のプロデューサー氏とヴィクトル・エリゼの話で盛り上がったり、生前ナム・ジュン・パイクとヨゼフ・ボイスがコラボした企画「ユーラシア」を基に、友人の渡辺真也監督が製作中の映画で、僕も手伝っている「Soul Odyssey - Searching for Eurasia」の相談をしたり。

顧客と初めて行った六本木の大人気ステーキハウス「W」や、就活中の若者と行った青山「D」では一寸食べ過ぎ、昨日はアーティスト2名とギャラリスト、某美術館学芸員達と葉山一色海岸のバーベキューの出来る海の家に赴き、その後は代官山ドヌーヴの逗子の別宅で、夜空に浮かぶ半月と波の音を愉しみながら夜中迄。

それと同時に僕の「エキジビション・サーフィン」は相変わらず続いて居て、先ずは銀座一穂堂で始まった「浅井竜介 無の用」展。

陶芸家の祖父、写真家浅井慎平を父に持つ浅井竜介は、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジを卒業し、陶芸家鯉江良二に師事。大好きな「茶碗」を作る為に陶芸を始めたと云う、ミュージシャンでも有り、音楽プロデューサーでも有る浅井の井戸や唐津、引出黒や粉引等バラエティに富んだ茶碗達のダイナミックな造形を楽しんだ。

森美術館で開催中の「ディン・Q・レ展 明日への記憶」は、ベトナム作家としての本領発揮の素晴らしい展覧会で、我々の知らないベトナム戦争の真実を知らしめて呉れる。

特にヘリコプターを主題とする作品群や、枯葉剤散布に因って産まれたシャム双生児をモティーフとした人形や衣類等、僕には心臓を掴まれる程の衝撃だったので、是非観て頂きたい。

また、その足で向かった21_21 Design Sightで開催中の展覧会「動きのカガク展」は、参加型の面白くも学べる展示で、構造と美の新鮮な「動き」を体感出来、「モーション・デザイン」と云う概念を教えてくれた展覧会。

そしてメゾン・エルメス・フォーラムでは、ずっと気に為って居た「Demarcation 境界」展を漸く観る。

この展覧会はゲスト・キュレーターにアーツ前橋の住友文彦氏を迎え、舞台演出家高山明の作品「ハッピー・アイランドー義人たちのメシア的な宴」と、映像作家小泉明郎の「忘却の地にて」を展示する物だが、久し振りに映像作品の迫力を感じる素晴らしい展示で有った!

例えばこの間行ったベニス・ビエンナーレでも映像作品の数が非常に多く、その理由は例えば絵画や彫刻、大掛かりなインスタレーションに比べて、映像作品はチップ1枚送れば世界何処の美術館でも展示できるし、輸送費も掛からないと云う事も有るだろうが、アートとしての製作過程に於いて、テクノロジーへの依存度が高く為って居る事も否定出来ない気がする。

それと同時に、1つの展覧会に映像作品が多いと観覧時間がかなり取られて仕舞うと云った事も有り、実は僕は映像作品が苦手なのだが、高山と小泉の2作品は非常に簡潔でインパクトが強く、胸に迫るモノが有り、個人的にはシリン・ネシャットの「OverRuled」(拙ダイアリー:『却下される「訴え」』参照)やビル・ビオラの「トリスタンとイゾルデ」以来と云っても良い程の感銘を受けたのだった。

不出来でエゴイスティックなオリンピックの為に日本政府から見放された「福島」の様に、本展で観られる「牛」や「記憶」は、我々の行為の結果として人間自身から隔離され、粉々にされ、見放され、そして放置される。

そして、高山・小泉両作家の作品で静かに強く繰り返される「隔離」の恐怖は僕を震撼させ、「境界」の溝の深さと果てし無い距離をリアルに感じさせる、誠に素晴らしい作品…キュレーションを含めて、必見の展覧会だと思う。

「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」(「悲しき熱帯」)

住友氏がパンフレット序文で引いたレヴィ・ストロースのこの一文程、今の日本人が考えねば為らない事は無い。

「境界」は、深く遠く僕らの前に横たわって居る。