「8分6秒」の闘い。

昨晩速報でお伝えしたが、クリスティーズ・ニューヨークで開催された印象派・近代絵画」イヴニング・セールで、ピカソの「ヌード、観葉植物と胸像」が1億648万2500ドル(約100億円)で売却され、「オークション史上世界最高価格」を更新した。今日は、そのドキュメントをお伝えしよう。

当時のピカソの愛人であった「マリー・テレーズ」をモデルに描いたこの作品は、1932年3月8日の制作、サイズは162 x 130cm.も有る大作である。コンディションも良く、カタログ上は「エスティメイト・オン・リクエスト」となっているが、今年2月にサザビーズ・ロンドンで樹立された、ジャコメッティのブロンズ「歩く男I」の最高価格を抜くかも知れない、との声も事前に囁かれていた事も有り、夜7時からのオークション開始を前に、会場入り口付近は大混雑であった。

7時になると、セール・ルームは超満員。世界の有名コレクター、ディーラーやセレブ達、プレスも多く見えるが、今日の主役はズラッと並んだ「テレフォン・ビッダー」達の後ろに掲げられた、「マリー・テレーズ」以外には有り得ない。

時間になり、世界のベスト・オークショニアの誉れの高い、クリスティーズ名誉会長のクリストファー・バージが台に上がると、会場は俄かにざわめきを増し、期待とも不安とも付かぬ喧騒に変わる。今晩の「イヴニング」は、件のピカソを含む「ブロディ・コレクション」の28点を先ず売り、その後通常の「イヴニング・セール」へと続く段取りになっているのだが、件の「ピカソ」はその最初から6番目のロットとして登場する。しかし、この様な早いロット番号に、そのセールの最も高額な作品が来るのは非常に稀で、通常は会場の雰囲気を徐々に盛り上げて行く為に、セールの真ん中から後半に掛けてのロットに持って来るのが常套手段なのであるが、どうなのだろう。

軽い緊張感の中、バージの声が響き渡り、ロット1が始まった…先ずはヴイヤールの、現代美術の様に「カッコ良い」「自画像」。最初の作品から非常に活発なビッドで、120-180万ドルのエスティメイトに対し、230万ドル(約2億2000万円)のハンマーで落札。幸先の良いスタートの後は、一点カルダーが出品取り消しになったが、ブラックの静物画が900万ドル(約8億5000万円:エスティメイトは300-500万ドル)、ジャコメッティのブロンズ「猫」が1850万ドル(約17億4000万円:同1200-1800万ドル)、マリーニのブロンズも200万ドル(約1億2000万円:同150-200万ドル)と好調に売れ、そしていよいよ「ピカソ」の登場である。

バージが「次はロット6、ピカソの『ヌード、観葉植物と胸像』です」と告げると、会場に居る全員の目が、会場右の壁沿いに設けられた「テレフォン・ビッダー」の席の上方に向けられる。そして、夫人と共にカタログに目を落とす老紳士、携帯電話で顧客と話すディーラー、隣の美しい女性の耳元で何事か囁く若いコレクター、「スカイボックス」と云うVIP席のカーテンの隙間から見下ろす集団…各人各様、群集は落ち着き無く蠢き始めた。

バージに拠る競りの第一声は、「5800万ドル!」(約54億5200万円)。シーンと静まり返った会場に、バージの声が続く…「6000万…6200万…6500万…6800万…7000万ドルです…」。そして、8000万ドル迄は会場、電話に拠るビッダーが、少なくとも5人は存在した。しかしそれを越えた頃から、「会場」と「電話」の2人のビッダーの一騎打ちになった競り値は、会場の全員が固唾を呑んで見守る中、恐ろしくも順調に上がり、8700万ドル(約81億8000万円)に到達。そこで一息有ったのだが、実はドラマは此処からであった。

この位の金額になると、ワン・ビッドの金額は「指」を一回振るか、一回「頷く」だけで「100万ドル」ずつ上がっていく…考えるのにも、当然時間が必要だ(笑)。が、大方の予想に反して、バージの「8700万ドル以上有りませんか?」の声に応えたのは、「新しい」電話のビッダーであった…そのビッダーは、何と「80億円『から』」参戦したのだ!

その新旧の電話ビッダーに拠る一騎打ちは、時間を掛けて、ゆっくりと静かに進む。水を打った様に静まり返るセール・ルーム…そして、競り値が9000万ドル(約84億6000万円)を越えると、会場は「静かな」興奮と期待に包まれ始めたのだが、それはジャコメッティが作った記録「1億430万ドル(98億4000万円)」(手数料込み)を超える可能性が出て来たからである。

電話ビッダーの反応が遅くなり、時間が掛かり始めるが、バージも辛抱強く、しかし時たまジョークを交えながらその返事を待つ。競り値は、遂に9500万ドル迄上がり、この時点で「新記録」が確定したが、未だ場内は水を打ったような静けさ。バージが、「もうこれ以上、有りませんか?後悔は有りませんね?このまま売却しますが、本当に宜しいですね?」と何度も念を押す。

待つ事数十秒、バージに拠る「ラスト・ウォーニング」、「ラスト・チャンス」の声が放たれると、彼の右手のハンマーが机を勢い良く叩き、バージは「9500万ドルで、ニックのビッダーに売却しました!」と叫んだ。そしてその瞬間、会場からは溜息とも歓声ともつかぬ声が洩れ、万雷の拍手が舞い起こったのだった。因みに「サクセスフル・ビッダー」であったニックとは、副会長職に在る「オールド・マスター絵画」の専門家で、8700万ドルから参加したビッダーである。

夫が不動産ディヴェロッパーとして財をなし、夫亡き後妻は著名な慈善家となったブロディ夫妻が、1950年に「1万7000ドル」で買ったこの「マリー・テレーズ」を巡る争奪戦は、「8分6秒」(ニューヨーク・タイムズの測定に拠る)に渡り、「美術品」と呼ばれる如何なる作品の中に於ける「オークション史上最高価格」を更新して、終了した。通常「1ロット・1分」で売却するオークションでは、この8分と云う時間は異例の長さであるが、余りの緊張感の為か、長いと云う感覚はまるで無かった。

結局「ブロディ・コレクション」は1点の出品取り消しを除き、27作品を完売、ピカソ、ブラックのアーティスト・レコードを作り、総額2億2417万7500ドル(約210億7300万円)を売却した。この金額は、クリスティーズ・ニューヨークで売られた「個人コレクション」の売り上げ新記録である。

アートの価値は決して「金額だけ」では計れないが、1つの指標ではある。そして、サザビーズの「バラの時代」のピカソが、初めて美術品の価格として1億ドルと云うラインを超えた時、そして昨晩と「その場」に居合わせた者としては色々な想いが有るが、この作品には「金額」では計る事の出来ない「アートとしての魅力」が十二分に有ると思う。そしてこの新記録は、その作品自体の魅力と、ピカソジャコメッティの様な「近代ー現代」の架け橋的作家の重要性、そしてその近・現代両分野間のコレクターに拠る、強力な争奪戦の結果なのでは無いかと感じたりもした。

何時の時代、どんな分野に於いても「新記録の出る瞬間」の興奮を抑える術を、筆者は知らない…久々に興奮したオークションであった。