「OMEN:前兆」(前編)。

その日は雨、だった。

依頼主が用意し、迎えに来たクラシックな車に私が乗り込んだ頃から、雨は少しずつ激しさを増し、大混雑のマンハッタンを抜け出した午後3時を廻った頃に為ると、空はより厚い雲に覆われ、フロントグラスを叩く雨音も一際大きくなった様だった。

黒人の運転手は、私が車に乗り込む際に「貴方様は、桂屋様で御座いますね…私の事は『エドワード』とお呼び下さい。」と云ったきり、一言も口を利かない。余程寡黙な性格か、客と無駄口を利かない様主人から厳しく教育されているか、の何方かなのだろう。

不規則なリズムを刻む雨音と車の心地良い揺れの所為で、私がウトウトしている間も車は走り続けたらしく、急カーブを曲がった際にふと眼を覚ました時には、私とエドワードを乗せた車は、恐らくはアップ・ステートの何処かの森の中を比較的ゆっくりとしたスピードで走っている最中であった。

時計を見ると、マンハッタンを出てから、もう90分以上も走っている。

エドワード、後、どれ位掛かるのだろう?」

エドワードは固く閉ざされて居たその紫色の唇を漸く開き、感情の篭らない声で答えた。

「恐らく10分程では無いでしょうか。」

森の中を走り続け、10分後、エドワードの時間感覚が驚く程正確だった事が証明されると、日本風に云えば「良い味の付いた」、非常に背の高い煉瓦壁と鉄門が唐突に私の眼前に出現した。

何処かにカメラでも付いているのだろうか、車が門前に止まると同時に高い鉄門が音も無く内側に開き、私とエドワードを乗せた車を迎え入れると、車は再び走り始めた。が、幾ら走っても依頼主の屋敷は未だ見えず、舗装された道がうねうねと続くのみ…息苦しい様な曇天と、道の両側に続く鬱蒼とした森の所為で真夜中の様に暗くなった道を点灯した車は走り続けるが、時折ライトに映し出される雨が、何故か私にはこの世には存在し得ない物質の様に思え、不吉に感じる…そう、今から思えばそれは当に「OMEN(前兆)」で有ったのだ。

鉄門を潜ってから、5分以上は走っただろうか…広大な敷地を容易に感じさせる距離を走った末、私達を乗せた車が漸くスピードを落とすと、雨の落跡を映し出す弱々しいライトの前に、年取った巨人を思わせる風格の洋館が出現した。

今時珍しい、ガス燈が点る重厚な玄関に車を寄せると、エドワードは先に降り、回り込んでドアを開けると、私は雨を感じながら玄関に降り立った。

ジャン・ヌーヴェルがルツェルンと云う街に立てた、巨大な会議場の「庇」を思わせる玄関の軒下に入り込む。そしてエドワードは呼び鈴を鳴らすと、まるで今まで存在していなかったかの様に、忽然と闇に塗れて消えて行った。

エドワードが去り、白く光る雨を眺めながら暫く佇んでいると、観音開きのドアが内側から開き、薄暗闇の中から、年老いた、そして驚く程白い顔をしたバトラーが現れ、掠れて消え入る様な、強いスコットランド訛りの声で私に話し掛けた。

「桂屋様でございますか?」

「そうです。ご主人の依頼で、査定に参りました。」

バトラーは、私がその傲慢な行為をほんのりと気付く程度のスピードで、私の頭頂から靴の先迄を「爬虫類の舌」の様に嘗め回すと、これも聞こえるか聞こえないかの絶妙な舌打ちをし、「桂屋様、どうぞお入り下さい」と告げた。

屋敷に入ると、其処は薄暗い蝋燭の炎とベルベットのみが際立ち、過剰に装飾された、しかし驚く程趣味の良い、まるで一瞬の内にタイム・スリップしたかと錯覚する程の19世紀末的空間で、燭台を持った少し猫背のバトラーも、これ以上無いと云う程の典型的な英国執事の出で立ちをしている。

バトラーはマイケルと名乗り、肘掛に獅子の飾りが施された紫の一人掛けの椅子を私に勧めると、「暫くお待ち下さい」と云い残し、漆闇の中へと消えて行った。

椅子に座るのを何と無く躊躇い、立った侭ほの暗い室内を眺めると、螺旋階段の脇の壁にはルーベンスらしき巨大な歴史画や、私が敬愛するメムリンクらしい肖像画等のオールド・マスター絵画が上品に掛けられ、天井からの吊るされたシャンデリアの蝋燭の灯に揺れている。

すると、闇の奥でドアの軋む音がし、コトコトと云う音が聞こえたかと思うと、暗闇から現れたのは、マイケルの死人の様な白い顔と、彼の押す車椅子に座った、小柄な、しかしどんな俳優もたじろぐ程ハンサムな顔立ちの、若い男性の姿で有った。

ムッシュー・桂屋ですね?この雨の中来て頂き、心より感謝して居ります。」

真っ青な瞳に丁寧に横分けされた黒髪、筋肉質の体躯とフランス訛りの英語…女性で無くとも一瞬の内に恋に落ちてしまう程に魅力的なこの不具の青年、邸宅の主、そして私の依頼者は、「フランク」と自らを名乗った。

(To be continued)