ルシアン・フロイドの「離見の見」。

いや、驚いたの何のって…俳優の香川照之君が、「9代目市川中車」を襲名するとは!

亀治郎丈が「4代目猿之助」を襲名するのは、正直「まぁ、そうだろう」位の感じだが、香川君の歌舞伎出演も然る事ながら、中車襲名には本当に吃驚仰天である。

今は付き合いも無いが、香川照之君はG学園の幼稚園から高校迄、筆者の2つ下の後輩で有った。「聖歌隊」で一緒に賛美歌も歌ったりしたが、当時母親同士(香川君のお母さんは、女優の浜木綿子さん)もPTAでご縁が有り、彼が東大に現役合格した際には、皆驚きと彼に対する畏敬の念を持った物で有る。

香川君が3代目猿之助丈の息子さんで有ると云う事は、筆者が子供の頃から周知の事実で有ったが、しかし父親である猿之助丈は、今迄彼を決して息子と認めず、会う事すらしなかった。昔、香川君が歌舞伎座に父親を訪ねて行ったにも関わらず、玄関先で追い返されてしまった話は悲しくも有名な話だが、しかし今春から既に同居をし、ネット新聞等の写真で父子(&孫)が一緒に写っているのを見ると、やはり「時」だけが複雑な問題を解決出来る「唯一」の物なのかな、と感慨深い物が有る。

歌舞伎の稽古や古い仕来り等、これから覚える事も多く大変だと思うが、歌舞伎役者としての香川君のこれからにも期待したいと思う。

さて昨日は、仕事でメトロポリタン美術館に行った序に、楽しみにしていた展覧会「Homage to Lucian Freud」を観て来た。フロイドは筆者が最も敬愛する現代美術作家の一人だが、先日惜しくも亡くなってしまい、この展覧会はその追悼の意を込めた企画らしい。

会場を探して歩き、ビザンチンや近代美術の部屋部屋を通り抜けて、やっと辿り着いたMET最深部の「たった一室」がこの展示室なのだが、その部屋に一歩入った途端に感じたのは、フロイド作品が発する「気」の恐るべき「濃密さ」で有った!

その部屋に展示された作品は、フロイドが大小合わせて17点にベーコンが2点、そしてアウアバック(Frank Auerbach)が1点の計20点のみ。そして17点のフロイド作品は、MET所蔵の有名な1点「Naked Man, Back View」を除くと、全てが「個人コレクション」からの出展と為っている。

ルシアン・フロイドと云う画家は、誰が何と云おうと、疑い無く「20世紀最高の画家の一人」である!この一室に飾られた作品も本当に素晴らしい物ばかりで、例えば、初期1957-58年頃の「A Young Painter」…恐らくセルフ・ポートレイトと思われる小品では有るが、力強い最高の作品で、或る意味一番欲しい作品だった。

その他にも「Two Men in the Studio」('87-89)や、フロイドの代名詞に使われる「太った女」を描いた大作「Sleeping by the Lion Carpet」、上記「Naked Man」と同じモデルで有るパフォーミング・アーティスト、Leigh Boweryとその死の直前に結婚をしたNicola Batemanを描いた大作「And the Bridegroom」等、フロイドの実力を思い知らされる作品が並ぶ。

フロイドは、かの高名なる精神分析ジークムント・フロイドの孫である。ドイツに生まれ、ナチから逃れて英国に来た作家だが、彼の「人間の肉体」とその「美」と「醜」への執着は、並大抵では無い。その意味でフロイドは、今回同時展示されたベーコンの「正当なる後継者」と云えるのだろう。

たった一部屋の展示なのに、恐ろしい迄の濃密さを放つフロイドの描いた「肉体」達…しかしこの肉体には、不思議と「体臭」を感じない。力強い筆致で描かれる、有り余る醜い脂肪や浮き出る血管…そしてこの肉体を観ていて、何故か「離見の見」と云う世阿弥の言葉を思い出した。

この「離見の見」とは、当然能役者の為の心得の一で、「舞っている自分の姿は、自分で観る事が出来ない…心眼を観客の目に置き換えて見よ」と云う意味で有るのだが、例えば自画像や人体を描く画家にも、何処かそう云った向きが必要なのでは無いだろうか。それは、勿論自分の肉体の内部から沸々と湧き上がって来るモノの表現に違いないが、此処まで極限的な人体を描くには、己の肉体を離れての、何処か「幽体離脱」的、或いは「神の目線」も重要では無いかと思うからだ。

そしてフロイドの作品には、何時も人間の肉体の「『美醜』を超えた何か」を感じる。これはベーコンの作品を観た時も同じで、彼らの描く具象なのに具象と呼び難い、美醜を超えた「肉体」には、その「何か」を形成するで有ろう、謂わば第三者的視線が無ければ、この様な肉体表現は不可能では無いかと感じるので有る。

フロイドに別れを告げ、METを出てアッパー・イースト・サイドの顧客を一人訪ねた後は、76丁目のGagosianに立ち寄る。こちらも英国の現代作家、ジェニー・サヴィル(Jenny Saville)の新作展「Continuum」を観る為で有った。

この「血塗れ」な作家の作品も以前から大好きなのだが、或る日解剖死体等が満載の彼女の作品集を見て気分を悪くし(正直、吐きそうに為った)、少し遠ざかって居たのだが、フロイド作品を観た後に彼女の作品を観る事が、最もサヴィルを知るに相応しいと思ったので有る。

新作展は、お馴染みの血塗れポートレイト作品「Red Stare Head」と、ミケランジェロにインスパイアされた「Pentimenti」の両シリーズ等。此方も相変わらず「肉体」や「肌」への固執が窺えるが、例えば余りに衝撃的だった「Figure 11.23, '97 」(→http://www.christies.com/lotfinder/jenny-saville-figure-1123/3918151/lot/lot_details.aspx?from=salesummary&intObjectID=3918151&sid=1ee9e72a-7580-42cb-a023-b43d39778e9a)や「Branded, '92」(→http://www.christies.com/lotfinder/jenny-saville-branded/2090381/lot/lot_details.aspx?from=salesummary&intObjectID=2090381&sid=ae14b2bf-a48c-4519-b707-895a9ad7996f)等に比べると、その作風は大分大人しくなり、優しささえも感じる程だった事に驚きを隠せず、少々物足り無かったのも事実である。

フロイド、ベーコン、アウアバック、そしてサヴィル。極限的な「肉体」をテーマとする、英国いや現代絵画の真髄…今流行の商業的な軽いアートとは、根本的に異なる「絵画」の真髄…を感じる事の出来る「必見」の展覧で有った。

この展覧会を、決して見逃しては為らない。