「コントラスト」&「協奏曲」。

寒いと思ったら、ニューヨークの今朝の気温は何と1.7℃!…が、この落差がニューヨークらしいと云えば、ニューヨークらしい。

ダウン・ジャケットを着込んだそんな先週末は、宝石デザイナーのMとジャパン・ソサエティ市川崑監督の映画「おとうと」を観に行く。

市川が1960年度毎日映画コンクール監督賞を受賞した本作は、幸田文の原作小説の映画化だが、結構重い内容の物語で、田中絹代演じる手足が不自由で厳しいカトリック信者の義母の下でグレて仕舞い、最後は肺病で死んで仕舞う弟を温かく見守り世話する、姉役の若き岸恵子が美しい(が、セクシーでは無い…)。

またテンポ良い脚本も然る事ながら、ヌーヴェル・バーグっぽい構成や時折見られるユーモア溢れる描写、役者達の演技、そして「コンイズム」と呼ばれる映像美が際立つ。

その映像美に大きく貢献したのが、本作に於ける技術面でのもう一つの大きな見処…黒沢の「用心棒」や市川の「東京オリンピック」、或いは増村の「刺青」(拙ダイアリー:「若尾文子の白肌:『刺青』参照)等を撮った名カメラマン、宮川一夫に拠って本作で初めて使われた「銀残し」と云う技術だ。

この「銀残し」とは、通常現像時に銀を取り除く処理を敢えて遣らず、銀を残す事に拠って暗部をより暗く出来る為、明暗のコントラストを強くして引き締まった画面を作るテクニックだが、成る程後年の「犬神家の一族」等にも見られる、市川好みの美しい漆黒の「闇」が印象的だった!

そして先週に引き続き、再びポリーニを聴きに…今回は最近では珍しいオーケストラとの共演で、彼の「協奏曲」を聴く機会が今後どれ位有るか分からないと思い(「今度聴きに行こう」と思った侭、気が付いたら死んで仕舞って居た大物ミュージシャンが、過去に何人居ただろう!)、僕の知人友人の中でもアマチュア・クラシック・ピア二ストNO.1の腕を持つMを共だって、David Geffen Hallを訪れた。

Mはチェルシーの某有名現代美術画廊に所属するアーティストなのだが、父親は画家、自分も高校迄本格的にクラシック・ピアノをやって居た筋金入りの芸術男で、彼に取っては僕の大好きなショパンの「バライチ」(バラード第1番)等、御茶の子再々…何度か彼のピアノを聴いた事が有るが、それはもう其処らのプロよりナンボか素晴らしい。

そうこうして超満員の会場の席に着くと、2017年で音楽監督を辞任するギルバートが万雷の拍手で迎えられ、先ず1曲目はベルリオーズの序曲「海賊」。

だが、実は僕は元々彼の音楽が苦手で、それは彼の振る曲が何時も一本調子で大業過ぎるからなのだが、残念ながらこの序曲も唯の行進曲にしか聞こえず、そもそも何故こんな曲を演奏会に選んだのか、理解に苦しむ。

2曲目はチャイコフスキー初期の名曲、「ロメオとジュリエット 幻想序曲」…が、僕としてはあの高名で美しく切ない主題の部分を、ロシア的にゆったりたっぷり粘って聞かせて欲しかったのに、指揮者とオケは、あんなに早いテンポで走って仕舞った為に弦が続かない…吃驚して思わずMと顔を見合わせたが、哀し過ぎる演奏で有った。

そんな余りにも残念な2曲を終えたインターミッション中も、僕等は「ポリーニ、大丈夫かな?」と不安で一杯だったが、その後僕達の不安は見事に的中して仕舞う…。

インターミッションが終わると、大喝采の中、先週のスーツ姿とは異なり燕尾服を着たポリーニが入場し、ショパンの「ピアノ協奏曲第1番」が始まった。が、その出だし、ポリーニの弾いた和音は滑ってバラけて仕舞い、その後何回ミス・タッチが有った事か!

序でに、年老い指の力が無くなったポリーニは、オケの情け容赦ない大音量に負けない様に、身体を浮かせて前のめりに為り、体重を掛けて弾くがピアノの音が良く聴こえない。然し、それでも第2楽章のピアノの途轍も無く静謐な美しさは「あぁ、矢張り聴きに来て良かった…」と染み染み思わせる出来で、それがせめてもの救いだった。

そんな音楽会終了後、Mと食事をしながら激しく同意したのは、

1. 残念ながらギルバートと今のニューヨーク・フィルは、ヨーロッパの音楽を余り理解して居ない様だ。2. それはヨーロッピアン・クラシック音楽を演奏する際に肝要な、楽譜に現れない謂わば「余韻」や「ニュアンス」と云った物を理解出来ないと云う意味(ラン・ランの演奏にもその気が有るので、僕はダメなのです…)。3. なので、特にスローな旋律演奏時に必要な、音符と音符の間に在る見えない極小音符的な「タメ」が産む「アジ」が無いので、演奏が何時も大音響の一本調子に為って仕舞う。4. が、ポリーニの弾く「協奏曲」を今度何時聴けるか分からない、と云う意味で、聴きに来て良かった。

…だったのだが、実は僕達が一番憤慨したのは「協奏曲」の意味に就てだった。それは、70過ぎの指の力の衰えたピアニストが協奏曲を弾くのだから、指揮者はオケが音を少し抑える様に指示し、ピアノの音をより良く聴衆に聞かせる努力をすべきでは無かったか?と云う意味。何しろこの晩のポリーニが出だしから怪しかったのは、客席の僕等にだって分かった位なのだから…。

「協奏曲」は読んで字の如く、ソリストとオーケストラの協働作業だが、況してやポリーニの様なミスタッチが有っても気に為らないレヴェルのソリストと協奏する場合、曲の完成度を高める為には、彼を気遣い引き立てるのが当然。

そしてそれは、例えば盲目の辻井伸行が協奏曲を弾く時の事を考えれば一目瞭然なのだが、この晩で云えば、逆にポリーニの方からオケとの協働を果たした感の有る「第2楽章」の味わい深い美しさが、実際に証明して居た様に思う。

市川崑ポリーニ…秀でたアーティストの芸術には、必ずコントラストと味わいが有る。


ーお知らせー
*Gift社刊雑誌「Dress」にて「アートの深層」連載中。10/1発売の11月号は「秘すれば花」な「春画」に就て。