信仰と勧善懲悪、そして新しい「アイ」のかたち。

今回の日本滞在も終盤戦に入り、先週末も展覧会やコンサート、舞台鑑賞のアート・ライフも充実度を増す。

展覧会の方は東京都庭園美術館「並河靖之七宝展 明治七宝の誘惑ー透明な黒の感性」、原美術館「エリザベス・ペイトン:Still life 静/生」、そしてエルメスでの「曖昧な関係」展を観覧。中でも並河七宝とペイトン展が良かった。

村田理如氏の尽力で、最近漸く日本でも大人気と為った明治七宝だが、その代表格並河靖之の展覧会は会場との親和性も手伝って、豪華の一言。七宝技術に於いて「漆黒のバックグラウンド」を初めて確立した並河の作品は、例えば墨絵と琳派と云った、ミニマルとデコラティヴの両輪を持つ日本美術の正統なる潮流の上に在る事実を、華美な装飾、余白を用いた構図やクロワゾニスム、そして伝統工芸的超絶細密技工で証明する。

一方ペイトンは、現代具象美術作家の中でも僕が最も好きな作家の1人で、それは彼女の描くポートレイトが「イラストレーション」の方向へ倒れ込みそうに見えても、確りと「アート」に踏み止まって居るからだ。

今回の展示での発見は、ペイトンの技法…板をキャンバスに貼り、それに油彩で描いて居るが、側面に垂れた絵具を敢えて拭わず、画面の平面性に対して作品としての立体感を持たせる工夫がされて居て、作家の「手」をも感じる事が出来る、良い展覧会だった。

またアートの合間には、銀座の山野楽器で開催された、友人のクラシックギタリスト益田正洋君とリコーダー奏者のミニ・コンサートへ。益田君のラテンの血が騒がせるピアソラ等の曲を楽しんだが、個人的にはリコーダーの音色がどうしても好きに為れず….何故なんだろう?

で、此処からが本題。今日は最近体験したシネマ&ステージの事を…先ずはスコセッシの新作、遠藤周作原作の話題作「沈黙」で有る。

中学生だったかと思うが、未だカトリック系の男子付属校に通って居た頃、僕はこの「沈黙」を読んだ。そして大きな共感と感動を得たのを覚えて居るが、今回の映画化には監督がスコセッシだと云う事も手伝って(僕は個人的に、スコセッシを買って居ないのだ…)、ニューヨークで本作の予告編やTVCMを観ても、ずっと「?」マークが消えなかった。

が、豈図らんや、スコセッシ版「沈黙」は中々良く出来て居て、それは特に主演のアンドリュー・ガーフィールドアダム・ドライバーの演技に因ると思うが、長時間尺にも関わらず全く飽きず、観て居る無信仰の僕ですら、何度も何度も踏絵を強要され、棄教を迫られて居る気がした程だった。「信仰」の意味を深く考えさせられる、必見作品で有る。

そしてステージ1つ目は、六本木歌舞伎第二弾の「座頭市」。何時もはジャニーズが公演をしていると云う「Ex Theater Roppongi」で開催された、海老蔵寺島しのぶ主演の新時代歌舞伎だが、今回は脚本リリー・フランキー、演出は三池崇史と云う豪華版。

三池の映画版「座頭市」はたけしの好演も有って、良く出来た勧善懲悪作品として好きだったので、期待して行ったのだが、不安だったのは海老蔵の演技…然し今回の海老蔵は最近の歌舞伎座での彼とは異なり、活き活きとして居て、此処何年でも最高の演技だったと思う。海老蔵は古典よりも、こう云った舞台の方が性に合って居るのだろう。

また観客席からも「音羽屋!」との掛け声が掛かって居た、その血を引く寺島しのぶも流石の熱演で、本作も彼女が演じた2役を寺島で無い女優が演じたならば、僕の嫌いな、何時も通りの陳腐極まり無い所謂「ニュー歌舞伎」に為って仕舞って居ただろう。その意味でこの「座頭市」は、僕に取っては今迄でも唯一許せる「ニュー歌舞伎」と為ったので有る。

そして今回の大トリは、現代美術家杉本博司新作能「利休ー江之浦」@MOA美術館能楽堂。今回は、現在T大大学院で能と庭を研究している若き友人R君と東京駅で待ち合わせをし、観光客で満員の新幹線に乗って、いざ出陣。

美術館館長や大コレクター達、アート・ディーラーやアーティスト、はたまた首相経験者迄で超満員の能楽堂で始まった「利休ー江之浦」は、杉本博司企画・監修、馬場あき子作、浅見真州演出、亀井広忠囃子作調、千宗屋茶の湯監修、と云う最強スタッフ、そしてシテ利休の霊を浅見真州、ツレ細川忠興観世銕之丞、アイに石田幸雄と千宗屋と云った豪華キャストで始まった。

秀吉小田原攻めで著名な「天正庵」を舞台に繰り広げられる「利休」の前半は、静かで緊張感溢れる…が、最大の見所は、 舞台に立てた木板に提げられた一重切竹花入に、老人が椿を投げ入れる場面だ。

その竹花入は杉本氏が最近入手した、利休作・宗旦極・萬野美術館旧蔵の逸品、銘「江之浦」(命銘は杉本氏)で、同じく利休が作り、古渓宗陳に贈られ、益田家に伝来した「おだはら」が今回借用出来なかったが故に、杉本氏の前に忽然と現れた「運命のモノ」で有る。

またこの「利休ー江之浦」の「間(アイ)」は、今までの能には曾て無かった演出で、それは茶人千宗屋が舞台上で実際に点前をしたからだ!間狂言の話の後、静々と現れ、敷かれた畳に座った茶人は、遠目からも明らかに良いモノと見えた水指を取り出し、粛々と点前をする…恰も利休の霊が降霊した、厳粛な瞬間だった。

これは例えば黒沢の「蜘蛛巣城」で山田五十鈴が抱える根来瓶子、或いは「利休にたずねよ」で海老蔵が点てた長次郎「万代屋黒」の様に、モノも人も「ホンモノ」が登場する緊張感に溢れた、能の「アイ」の新しい形と為ったので有る。

さて観覧後の感想はと云うと、「利休ー江之浦」はその作行の精巧さで、新作能に有りがちな睡魔にも襲われず、素頓狂な演出や謡も無く、古典能かと見間違う程の出来で有った!

敢えて欲を云えば、前場に動きが少ないのとアイでの点茶が少々長い事、後場序破急の急がそれこそ「急」過ぎるのと、序の舞を始め舞が少ない事、また最後利休の霊が幕に消えた所で終わった方が、余韻が残る気がした事位だろうか。

然しそれ等を鑑みても、この新作能は実際実に素晴らしい出来と言わざるを得ず、それは僕の半世紀の能鑑賞人生で観た数多くの如何なる新作能でも、この「利休ー江之浦」だけが唯一もう一度観たい能だからだ!

公演後は杉本氏デザインの新MOA美術館を観覧し、その後は熱海某所で開催された「利休降霊記念大カラオケ会」(笑)にて、御大と「金がない」を熱唱…草葉の陰の利休さんも、この企画にはさぞ驚いたに相違いない。

そんな「新しい『アイ』の形」を知った僕は、今機内…NYへと戻る。