田口ランディ「被爆のマリア」読了。

思えばこの1、2年、意図せずして、また直接間接を問わず、「HIROSHIMA」をテーマにした多様なアート&アーティスト達と接してきた。

例えば、渡辺真也氏キュレーションの骨太展覧会「ATOMIC SUNSHINE」を初め、砂入博史氏の「HIBAKU TREE PROJECT」、INGO GUNTHERの「THANK YOU HIROSHIMA INSTRUMENT」、石内都氏「ひろしま/ヨコスカ」展、映画「YASUKUNI」等々。最近は「広島」と聞いたり読んだりしても、余り「原爆」に結びつかないが、「HIROSHIMA」となると直ぐに「ATOMIC BOMB」に結びつく…何故なのだろう。

「HIROSHIMA」に関しては、数多の異ジャンル作品を観たり読んだりする度に考えるのだが、未だ結論は出ないし、そんなに簡単な問題でもない。が、その時々に必ず思うのは、在り来りだが「日本が唯一の被爆国」であり、「戦争放棄憲法に謳っている国家である」という事実である(異論もあろうが)。これだけは、将来どの様に政治が変わったとしても、語り継がねばいけない。

田口ランディの小説は結構読んでいて、「コンセント」「アンテナ」「モザイク」の三部作から「富士山」などはかなり面白く、必ず終盤にカタルシスが有ったりして、好物であった。一時期盗作騒ぎがあって、業界の噂では「限りなく黒」とも云われており残念だが、しかし最初に彼女の作品を読んだ時の驚きや、爽快感が消えた訳ではない。

アートを語る上での難しい点の一つだが、「剽窃」「パロディ」「盗作」「見立て」といった言葉の使用基準がハッキリと見出せない以上、その用途はアーティスト本人の良心に任せられるだろうし、実際元ネタを芸術的に超えていなければ、それ自体全く無意味且つ自分を貶める事になるのであるから。

それはともかく、この短編集は切なく心に重い。

この作家が提出するテーマはいつもそうなのだが、人の心や体の最も触られたくない部分に容赦なく踏み込み、触り、陵辱し、そして昇華させる。被爆者と小児ガンで放射線を受け発育の止まった少年の話(「時の川」)、NOと云えない自分を、長崎のマリア像に重ね合わせる弱い女の話(「被爆のマリア」)等、結構グサッと来るが、それもある種の快感になって行くのが凄い。

また「イワガミ」は、キューブリックの「2001年宇宙の旅」に登場する「黒い板」と同じで、「全能」であるにも拘らず災難を止めようとしない、矛盾的運命論に身を任せる「神」、そして45億年後の弥勒菩薩出現の様な「救済の日」を待望する人間の、最後の「糸」なのだろう。

この短編集は「HIROSHIMA」がテーマではあるが、それは媒体に過ぎず、日本人の誰もが心の奥底では「到底肯定出来ない」、もしくは「したくない」が、結果的には「せねばならぬ」といった宿命的矛盾が、所謂「HIROSHIMA」なのではなかろうか。

読後一番心に残ったのは、「被爆前の広島の街は花が咲き乱れ、川が何本も流れ、非常に美しかった。しかし被爆前の広島の事を誰も私に尋ねない」と被爆者の女性が「イワガミ」中で語る箇所だ。「暗い過去を封印できるのは、唯美しい思い出だけ」とは、もしかしたら正論かも知れない。「HIROSHIMA」に関する如何なるアートも、将来その伝達・意思表示の形を変える事はあっても、続けて行かねばならない気がした。

追伸:オバマがロシアとの核軍縮交渉で、「核を減らすのでは無い、無くすのだ」と発言した。こんな事が中々云えない世界なのである。