母の誕生日に「熊野(ゆや)」を想う。

16日は、母の71回目の誕生日であった。近年この日が来ると、ある大好きなお能を思い出し、東京の母に想いを馳せる様になった。

金春禅竹作とも云われる能「熊野(ゆや)」は、豪華絢爛で話も判り易く、櫻(草)いきれが感じられる程の、美しい「三番目物」である。時は平家の時代、都に出てきて平宗盛の愛妾となっている「熊野」が、故郷の母親から病が重くなったので一目会いたい、との手紙を受け取る。熊野は里に帰らせてくれと宗盛に頼むのだが、宗盛は聞き入れない。里へ帰したら二度と戻らないのでは、という危惧と、熊野を元気付けようとする想いで、宗盛は熊野を伴に清水寺へ花見に出かける。

母の病を憂いながら熊野は観音堂で祈りを捧げ、一座を接待する為に舞うのだが、折悪しくも雨が降り、花を濡らし落とす。そこで熊野は「いかにせん 都の春も惜しけれど なれし吾妻の 花や散るらん」と詠み、宗盛を感動させて許しを得、嬉しさに震えながら帰郷する、という曲である。この曲には、「故郷に居るのは母ではなく、男なのでは?」なる裏読みバージョンもあるのだが、それはまた別の話。

先ず僕とお能の付き合いだが、実は能の謡を聞いて少年時代を過ごしたと云っても過言ではない。勿論プロの能楽師の家ではないのだが、父と叔母2人がシテ方観世流初世観世喜之氏の弟子、母は小鼓を大倉流小鼓15世宗家大倉長十郎氏に師事していたからだ。家には稽古舞台があり、毎週謡や鼓の先生がやって来て、そんな時には「テレツクテン、ヨーッ、ホーッ」と云った掛け声や、先生の怒鳴る声が聞こえ、お稽古後に先生に抱っこされた事など、今でも良く覚えている。

そして小学生位になると、お能を観にあちこち連れ回され、叔母が「道成寺」を披いた時等は、「家の一大事」で大騒ぎであった(我が家では「能病」と呼んでいる:笑)。その後お能とは縁が切れ掛けたのだが、何の因果か再び能病の世界に舞い戻ってしまった…閑話休題

さて、その小鼓を習っていた母の人生が、この「熊野」とシンクロするのである。

母は東北のド田舎の山中の、古い神社の一人娘である。小さく名も無いが、取り敢えず23代続いている神仏習合の神社で、母は33代目(本当かどうかは分からない)として実に大切に育てられた。乳母や馬番、使用人が都合十数人も居て、母は自分でお膳を運んだ事すら無かったらしい。今でも覚えているが、その家は本当に大きくて、大広間では子供が充分に野球が出来た位だった。

母は大学入学のため上京し、お能に興味を覚えて大学の能楽研究会に入ったが、そこで父と出会った。当時大学の研究室に居た父は、神道神道美術を研究しており、云わば「渡に船」の女性と出会った訳だ。大学を卒業後、その当時全官庁でも数名しか居なかった「キャリア」として外務省に勤め、しかしその2年目に父と結婚を決意した母に、親族は猛反対。一人娘はその務めとして、婿を取り神社を継ぐのが家の為という理由だ。母が幼い頃に夫を亡くした祖母は、その後自分で猛勉強し、宮司の資格(当時全国でも、女性宮司は片手程しか居なかった)を取った明治女で、母の教育や家の存続に厳しい考えがあったのも頷ける。

それを押し切って結婚した母だが、その後彼女の「都」での生活は一変する。学者の卵と結婚したと思っていた母は、当時神田に在った父の実家である学生旅館の日々の仕事を、「次男の嫁」として手伝う事を強要されたからだ。少女時代、右へも置かない扱いを受けていた母には、修学旅行や受験、スポーツ大会の為に上京してくる団体の学生が散らかす部屋、食堂、風呂、トイレの掃除など、涙も枯れる程辛かったに違いない。そんな生活の中で、肺結核だった学者バカの父の世話と、2人男の子を育て上げたのだから、気が強くなったのも攻められまい(笑)。

そして筆者が社会人になった頃、祖母の具合が悪くなった。結婚後東京で生活してきた母は、婿を取らなかった事や、祖母を唯一人故郷に残した事に、ずっと後ろめたい気持ちを持ち続けていたのだろう。その時母は、故郷に帰り祖母の世話をして、最後まで見取りたいと父に願い出た。数年に渡り、ひと月の半分以上夫子供の世話を放棄し、田舎の母親の世話に専念するのだから、これは家族の誰にとっても重大な決断であった。父との長い、様々な話し合いの末、父はそれを認め、母は旅立った。

遠い故郷(当時、東京から列車で7時間程掛かった)に、何十年も一人住まわせてしまった、年老いた祖母に対する母の「償い」の心。そしてその想いを、僕は今確かに母に対して感じて始めているのだ。

能「熊野」の中で、老母が熊野に送った手紙の部分の謡に、涙無くしては聞けない箇所がある。

「過ぎにし二月の頃申しし如くに、何とやらん此の春は、年古りまさる朽木桜、ことしばかりの花をだに、待ちもやせじと心弱き、老の鶯逢ことも、涙に咽ぶばかりなり」

そして最後に「在原業平の母」の歌、

「老いぬれば さらぬ別れのありといえば いよいよ見まく ほしき君かな」

が続く。母は若い頃、この謡をどの様な気持ちで謡ったのだろうか。

母はあちこちを悪くしながらも、何とか命を保っているが、会う度に年老いて行く。自分は長男の癖に、アートだ、ナンだと理由を付けては、異国の地での生活を楽しんでいる。そして年老いて来た母の誕生日が来る度に、嘗て母が若い頃に東京で感じていたであろう「熊野」の想いを、自分が今1万860キロ離れたニューヨークという「都」で感じ始めている事に、戸惑い悩むのである。

母上殿、また会う日までどうかお元気で。