「ホンモノ」と「ニセモノ」、それとも「レプリカ」。

昨日は朝から、出張先のP夫妻宅でのヴァリュエーション(査定)。弊社各部門(古代美術、中国美術、版画、オールドマスター絵画、19世紀家具等)の専門家達が一同にP夫妻宅に集まり、家中の美術品を査定するのだ。

P夫妻の邸宅(と呼ぶに相応しい)は、市街中心部から車で15分程、副大統領宅にも程近い、雄大な自然に囲まれた素晴しいロケーションに在る。得も云われぬシックな佇まいのお宅に入ると、「執事」(!)が出迎え、P夫妻も現れ挨拶を交わす。

「後はヨロシク。」と夫妻が外出すると、さぁ仕事。「執事」が色々と面倒を見てくれたのだが、この「執事」が非常に格好良い。仕事柄「執事」なる職業の人と会う事は珍しくないのだが、最近、特にアメリカで彼の様にカッコイイ「執事」に会ったのは、久し振りであった。

さて、このインド人らしき「執事」がどう格好が好いのかと云うと、先ず仕立ての良いスーツを着ている。靴が完璧に磨かれている。姿勢が宜しい(多分軍隊経験が有る)。まだ若い(恐らく50才位)。目付きが鋭い。身のこなしが軽やかでキビキビしている(特に歩く姿が美しい)。普段は仏頂面ぽいが、笑った時の顔が優しい。そして何よりも、自分の仕事に「プライド」を持っているのが、垣間見える所だ。流石良い美術品を持つ人は、良い「執事」も抱えている。

邸宅の中は、玄関から食堂、居間や書斎までジョージアン家具と、ルーベンスレンブラントなどのオールドマスター絵画・版画で飾られ、2階の部屋は日本の掛軸や屏風、中国の焼物で彩られている。しかし、何と趣味が良いのだろう…そして「ホンモノ」と暮らす生活とは、何と羨ましくも素晴しい事なのだろうか!!

仕事を終え、昼過ぎにP夫妻宅を後にしたのだが、最近至る所で正に「ホンモノ」を観る機会が多かった事、「ホンモノ」を見極める人達との交流の為か、はたまた最近石山寺で「レプリカ」を観て怒り心頭だった為か、NYへの帰りすがら「ホンモノ」と「ニセモノ」について色々と考えた。

先日石山寺に行った時、寺への入山料と宝物館への入場料等を払った末、寺所蔵の重文「石山寺縁起絵巻」を「レプリカ」でしか観れなかった、と云う出来事が有った(拙ダイアリー「近江の一日」参照)。以前にも日本美術ライター、橋本麻里氏のブログ「東雲堂日乗」にもコメントしたのだが、最近寺社や博物館などでも、特に国宝重文等の指定品の襖絵等に関して、「保存」を理由に「ホンモノ」を「レプリカ」に替えて展示する風潮が見られ、実は筆者はそれを非常に危惧しているのである。

文化財保護」は当然すべきである。が、だからと云って、その作品を観に来る人々に「レプリカ」を観せれば良いと云う事にはならない。ルーブルに行ってダ・ヴィンチの「モナ・リザ」が、ベルリンに行って「ネフェルティティの胸像」が、故宮に行って郭煕の「早春図」がレプリカだったら、皆さんどんな気分になるであろう…?

しかし、それよりも重要なのは、日本人として「ホンモノ」を見続ける事の大切さなのである。日本人が自国の文化芸術を理解し、観る眼を養うには「ホンモノ」を観続けるしかない。日常的に「ホンモノ」を観ずして、どうやって「ニセモノ」との区別を付けよと云うのか。歴史上、中国・韓国そして日本美術を「道具」として座右に置き、尊重・愛玩してきた日本人にとって、この「レプリカ傾向」は本当に危険な兆候だと、筆者は考えている。

日本人の「眼」や「感性」は、「ホンモノ」を実際に身近に置き、見、使う事によって育まれて来たからである。「ホンモノ」を見る事ができなくなった日本人には、その「眼と感性」の伝播は不可能になるのだから。

極論なのは重々承知の輔で、敢えて云わせて貰おう。

もしそんなに文化財保護が大事ならば、奈良・京都の街ごと「ドーム」にでも入れて、雨風を凌げば良い。何処かの寺の襖絵は大事で、元有る所から避難させても、教王護国寺五重塔は風雨に晒されて良いと云う事なのか。筆者は常々、文化(財)・美術(品)は、出来得る限り本来の意図・場所で、出来得る限り保護・保存し、その上で壊れたり滅びてしまうのであれば、それは仕方が無い、と考えている(例えば、ローマのコロセウムをドームなどで守らず、風化させる。「茶碗」が美術館に入ってただ展示されているならば、それはもう既に「茶碗」ではない、という意味)。

その寺の為に描かれた襖絵は、その寺が存在する以上は、其処に有るべきである。「文化」は風化して行くが、また「産めば」良い。「伝統」とは「革新」の連続でも有り、それが「伝統を守る」という事だと思う。百歩譲って、その「風化」を防ぎたい気持ちも判らないではないが、しかし「レプリカ」を見せれば良いという考えには、断固反対である。

「レプリカ」の恐ろしい所は、逆説的だがそれが「ホンモノ」に「ソックリ」だからなのだ。「ホンモノにソックリ」と「ホンモノ」は区別が付き辛い…「ニセモノ」の方が「騙され辛い」と云う面で、或る意味格段にマシなのである。

この風潮は、某大学で日本美術史を教えている教授が、或る日筆者に漏らした言葉にも見え隠れする。

「孫一君、最近の院生には、ホトホト呆れてしまったよ。」「どうしたんですか?」「生徒にある屏風に関してのレポートを書かせたら、実物観ないでレポート書いちゃうんだよね。」「はぁ?」「最近高画質で、縮小拡大も出来るデジタル・イメージが有って、それをコンピューターで観て、レポート書いて来るんだよ…。」

そう、勿論こんな学生は一部だろうが、この様な事態も起きているのである。金地屏風が光に因ってどの様にその見せ方を変えるか、襖絵がその寺や周囲の自然環境と、どう共存しているのか等には全く無関心で、「実見」の意味がどんどん遠のいている。

そもそも「実見」とは、「『実際』に『実物』を見る」事なのだ。「実物」を「実際に」見なくなる事程、眼や感性を鈍らせる事は無い。文化庁も寺社も地方美術館も、美術知識の無い一般人には、「レプリカ」を見せれば良いと本当に思っているのだろうか。

それならば、「レプリカ」を展示している事を大きく掲げ、「レプリカ」とは「ホンモノ」では無い「ニセモノ」だとはっきり謳って、入場料を取るべきである。ましてや国宝・重文は、我々国民の税金に因って保護管理されている以上、我々には見る「権利」がある訳だし、それでなければ、それこそ「詐欺」であろう。国は「ホンモノ」を国民に見せ、国民の感性を磨く教育をせねばならないと、此処に提言する。文化財「保護」はその後で十分である。

出張からの帰り、小型機の狭い機中から夕闇迫る窓の外を眺めた。すると、恐ろしい程の夕焼けが雲海を照らしており、その余りの美しさに息を呑んだ。暫く見蕩れていると、飛行機はスルスルと高度を下げて着陸準備に入り、一気に雲を突き抜けた。

すると今度は、これまた恐ろしい程に綺麗な夜景が、果てし無く眼下に広がったのだった。たった一瞬の、雲を境とする余りに美しい二つの光景…。これは観た者にしか解からないし、決して写真では伝わらない。

「ホンモノ」を「この眼」で見るとは、やはりそういう事で有る…自然も、美術も。