能の面(おもて)。

「能面」とは不思議な「美術品」である。

勿論「能」と云う芸能に使用される「道具」の一であるが、能役者の間に於いて非常に「神聖」な取り扱いを受け、奉納されている神社等でも、その「能」が元来神事で有った事から、本当に大切にされて来ている。

が、その「能面」が能役者の元を離れ、「美術品」と為ると一体どう扱われるのか。実は「能面」のファンは、世界中に存在しており、根強い人気を誇っているのだ。世界の「仮面コレクター」と云った人々も居るのだが、どうも「能面コレクター」はそれとは少々違う趣が有る様だ。

以前能面・装束のコレクションを売却した時も、東京の下見会には日本の能役者の方々、NYでは多くの外国人コレクターに来場して頂いた。その時には「元能役者」の妻が下見会を手伝っていたのだが、或る若い外国人コレクターなどは、知識も面の扱いも(面袋の上で観る、触る時は耳の紐穴の所を摘む、等)非常にきちんとしていて、時折妻に能の話や質問をしつつ全て観終わった後は、「眼福に預かりまして、誠に有難う御座いました。」と、何と「日本語」で挨拶をして立ち去ったので、我々はかなり驚いたものだ。その後、その若い男性は有名な能面コレクターと判り、オークションでもかなりの数を買っていた・・・恐るべしである。

さて、そんなこんなで、今日は3月のオークションで売却予定の、幾つかの「面(おもて)」を紹介したいと思う。

先ずは古い所から。室町末が有ろうか、と云われている「痩男(やせおとこ)」。津軽家伝来で有るが、名工「福来(ふくらい)」作と云われ、裏には作者本人と思われる彫花押、そして喜多流宗家七太夫に拠る金泥の署名・花押が有る。これは中々古格の有る面で、持った感じも非常に宜しい。

九条家伝来の「万媚(まんび)」は「小面(こおもて)」と同類の面だが、若い女面は例えば手書きの添え毛の違い等に因って、細かく分かれる。この「万媚」は、「百の媚(こび)に勝ると云ふ心也」と云われる様に、それまで有った若い女面に「濃艶さ」を盛り込んだ作となっている。「児玉近江」の焼印が有るので、桃山と云って良いだろう。妖艶すぎて、夜観たら眠れないかも知れない(笑)。

また、「天下一近江」の焼印の有る「今若(いまわか)」の面は、常盤御前の三人の息子、今若、乙若、牛若の「長男」の名から取ったと云う説も有る、「貴公子」の役の面。やや若目の憂いを持ったこの面は、状態も中々宜しい。

そして「出目寿満」作の「弱法師(よろぼし)」は、今回出品される能面の中でも、筆者の大好きな面。この面は、ご存知の方も多いと思うが、讒言に因って家から追放された豪族の一人息子が、悲しみの余り盲目になってしまい、乞食になった後、父親に発見され再会を果たす、と云う物狂能「弱法師」に使われる面である。「弱法師」の名の由来であるが、この追放された息子には「俊徳丸」(寺山修司作「身毒丸」のモデル)と云う名が有るのだが、

「げにも此の身は盲目の足弱車の片輪ながら、よろめき歩けば弱法師と、名づけたもふはことわりや」

と云う台詞が謡曲中に示されており、この面は少年の「あどけなさ」を残しつつも、「心の憂愁」をうつ向き気味に彫られた瞼や額の窪み等で、この悲劇的主人公の身の上を繊細に表現している。 

面白いのは、この「弱法師」や「蝉丸」と云った「盲目」の能面は、目の形全体が刳り貫かれているので、眼球だけを刳り貫いた普通の面よりも、演じる時に視界が広く良く見える「皮肉」な造りに為っている事だ。眼の見える役の面を付けると視界が狭く、盲目の役の面では見易い・・・この辺も「能」と云う芸術の一筋縄でいかない所であろう。

その他「姥(うば)」「白般若(しろはんにゃ)」等の面も出品されるのだが、これらの面が誰によって買われ、大切に仕舞われるか、飾られるか、はたまた再び舞台で使われるか・・・。

「能」と「能面」への興味は尽きない。