命懸けの美しき「恋重荷」@国立能楽堂。

再び日本へとやって来た。

ニューヨーク出発前日のカラオケ大会で張り切りすぎた為か、普段機内では全く寝られない僕が今回は珍しく4、5時間も寝れたのだが、それでも映画を観る事だけは忘れず、コリン・ファース主演のアクション・スパイ物「Kingsman: The Secret Service」と、ジョニー・デップが怪しい画商を演じるコメディ「Mortdecai」の、2本の「超英国映画」を観る。

特に「Mortdecai」は、オールドマスター絵画の世界で云う所謂「スリーパー」の話で、スイス銀行に在る筈のナチの隠し財産の口座番号がカンバスの裏面に隠されて居る、と云われるゴヤの失われた大名品の在り処を巡って、テロリストやコレクター、MI5、そしてデップ扮する破産寸前の画商Mortdecaiが争奪戦を繰り広げると云うドタバタ劇だが、オークション・シーンや揶揄されたアメリカ人コレクター等も出て来て、仲々面白い。

さて、今回の出張は勿論何時もの様に作品探しの旅でも有るのだが、或る展覧会のオープニングへの出席と云う重要な仕事も有った。

そして来日翌日の夕方、時差ボケの重い体を引き摺って列車に乗り込んで向かったのは、千葉…千葉市美術館で始まった「ドラッカー・コレクション 珠玉の水墨画ー『マネジメントの父』が愛した日本の美」展の、オープニング・レセプションだ。

もしドラ」で一大リヴァイヴァル・ブームを巻き起こした「マネジメントの父」、高度経済成長時代から現在に至る迄、日本の有名企業経営者の信奉者が絶えないP.F.ドラッカー博士が、日本絵画の大コレクターで有った事は余り知られて居ない。

ドラッカー博士と日本水墨画との出逢いは、それはもうロマンティックで、ユダヤオーストリア人だった彼は戦時中ナチから逃れ、ロンドンで投資銀行のサラリーマンをして居たのだが、そんな或る日急に雨が降り始め、雨宿りの為に偶々入った「ロイヤル・アカデミー」で開催されて居た日本美術展を観た彼は、一瞬の内に「水墨画」に恋に落ちたのだ…。

そんなドラッカー博士が集め、千葉市美の松尾女史に拠って美しく飾られた、室町から江戸期に渡る例えば雪村や鑑貞、前島宗祐や白隠等の水墨画の名品達は、僕が何回かカリフォルニアの倉庫で観た時とは全く違う顔を見せて呉れて居て、思わず頬も弛んで仕舞う…素晴らしい展覧会なので、是非とも見て頂きたい!

そして昨日夜、仕事を終えて向かったのは国立能楽堂…企画公演「特集・寺社と能 多武峰・談山能」を観る。

この「談山能」に関しては、拙ダイアリー「多武峰と『談山能』@談山神社」を参照して頂きたいが、今回はこの日の公演の2日前に談山神社で開催された能を、其の儘国立能楽堂で開催すると云う試みだ。

さて多武峰と云う所は能の源流とも云える場所で、鎌倉・室町期から「多武峰八講猿楽」が行われて居た。そしてこの「能にして、能に非ず」な「翁」と云う演目にしか使用されない「翁面」の原型と云われる「摩多羅神面」が、この談山神社の権殿の後戸に祀られて居る。

が、この権殿が天禄元年(970年)に藤原伊尹の立顔に拠り、天台寺妙楽寺として建立された常行堂だと云う事、また妙楽寺で毎年正月行われた修正会で、「六十六番猿楽」が「僧侶」に拠って演じられ、新作能も盛んに作られたとの記録が有る事等から、『「翁」とは、当に神仏習合的演目だったのでは?』と云うのが、開演前にトークをされた松岡心平先生のご意見で、誠に以って興味深い。

また「多武峰式 翁」は通常の「翁」とは大層異なって居て、通常3人居る小鼓は1人、大鼓は通常と同様に翁が立つ処でのお調べのみ、また太鼓は舞台に登場するが、全く演奏をしない。そして最大の違いは「三番叟」が無い所と、通常の翁面では無く、上記「摩多羅神面」を使用する点だろう。

そんな「多武峰式 翁」は、観世宗家に拠って荘厳に恙無く終了し、休憩と茂山狂言「棒縛」を経て、この日の個人的目玉、梅若玄祥師に拠る「恋重荷」が始まった。

世阿弥作と云われるこの「恋重荷」は、僕に取っては如何なる能の演目の中でも「最も身につまされる」曲で(笑)、「熊野」「隅田川」「道成寺」「葵上」等と共に、心理的リアリズムに魅せられる大好きな曲の1つで有る。

この能の物語を簡単に記せば、宮廷の菊作りの老人が女御の姿を見て恋の虜に為って仕舞うのだが、それを知った女御は「老人が『重荷』を持って庭を何度も廻る事が出来れば、もう一度姿を見せよう」と、悪魔の様な提案をする(こう云う女の人、居ますよね…)。

それを聞いて喜んだ老人は、必死に重荷を持ち上げようとするが(こう云う男は、もっと多いですよね:笑)、実はその「重荷」とは美しい綾錦で包まれた唯の重たい石で有って、当然老人はそんな「重荷」を持ち上げる事等叶わず、女御の残酷さを恨み、嘆きながら死んで行く(涙)。

中入後、老人の死を知らされた女御が「重荷」の側で悔やんで居ると、女御は重い石を乗せられたかの様に立てなく為って仕舞い、其処に怨みの鬼と化した老人の亡霊が出現して、女御に向かってこれでもかと恨み節を述べて責め立てるが、やがて老人の怨みは和らぎ、女御の守り神に為ると誓って消える、と云ったストーリー…中年男子としては、何とも身につまされる話ではで無いか(笑)。

そして当代きっての名人、梅若玄祥師の舞は本当に素晴らしく、特に後場、この僕が「この面には何か有るのでは?」と怖れる程の談山神社蔵「悪尉」面を掛けた玄祥師は鬼気迫り、最後に菊を投げ捨て、女御をキッと睨む処等、もう鳥肌物で有った!

さて、この「恋重荷」はシェークスピアも真っ青のトラジェディーで、それは身分・年齢の違う「身の程知らずな恋」をした老人の気持ちに、報いる気等無い女御の残酷さと、そんな今で云う「ビッチ」な女御を信じて仕舞う老人の純真さがテーマなのだが、老人が最終的に女御を許して仕舞う所が奥床しい。

…が、実は「恋重荷」の古い演出には、亡霊と為った老人が持ち上げられなかった重荷を軽々と持ち上げ、女御を追い回し、女御に重荷を負わせて衆合地獄の苦しみを味わせ、烈しく責め立てると云う、男としては一寸スカッとする(笑)演出も有るらしいので、人間には矢張り「怨み晴らさで置くべきか」と云う「魔太郎」的感情(若い人には分からないに違い無い…)が強く渦巻いている、と云う事なのだろう。

またこのお能の教訓としてもう1点挙げるとすれば、舞台に置かれた「重荷」の中身が唯の重く薄汚い石にも関わらず、美しい綾錦に包まれて居ると云う点で、それは『決して「女性」の外見に惑わされては為らない』と云う意味に相違無い。

とは云え、植木等的男としては「♬判っちゃいるけど、止められない♬」と云うのが正直な所では無かろうか…違いますか、男性諸君?(笑)


恋よ恋、我が中空に為すな恋、恋には人の、死なぬものかは、無慙の者の心やな。


美しくも恐ろしい「恋重荷」…背負いたい様な、背負いたく無い様な…(笑)。