「ストーキング・ザ・ビューティー」、カワバタ 。

春のメイン・セールも終わり、ホッと一息…今日知ったニュースでは、サザビーズで売られた巨大ウォーホルの売主は、どうもトム・フォード(拙ダイアリー:「一瞬の希望」参照)だったらしい…自ブランドの経済状態が悪いとは云え、30億円ガッポリである。

それに引換え、「骨董品」の分割払いも侭為らない(笑)コチラの昨日はと云うと、顧客と出品交渉後、5番街の「Armani/Ristorante」でランチをご馳走になった。

食したのは「バッファロー・カプレーゼ」(赤と黄色のトマトを細かく刻んで固め、オリーヴオイル等で軽く味付けしたのを、バッファロー・モッツァレラと食すのだ!)と、「ロブスター入り、ホウレン草練り込みパスタ」…両方とも超旨かった!マダムのエリザベスも美人だし、ウェイターも客もお洒落な人が多い…「胃」にも「眼」にも大満足なレストラン、オススメです。

夜はチェルシーに在るギャラリー「IPPODO」での、陶芸家坂爪勝幸展レセプションへ。妻は其処で作家との「30年振り」の再会を果たし、骨董貧乏の夫は、その後シンミリと川端康成の小説「みずうみ」(発表当時は「みづうみ」だったらしい)を読了した。

さてこの作品、先日ジャパン・ソサエティで観た吉田喜重の映画、「女のみづうみ」の原作と云う事で読んでみたのだが、読後の今少々驚きを隠せないでいる。

先ずこの小説の「筋」は、上記映画のそれとは全くと云って良い程異なる。映画の主人公はストーキングされる「人妻」(岡田茉莉子)だが、小説は「ストーカー」の男(露口茂)の方がメインとなっている。そしてこの主人公は、文学的個性表現やその「トラウマ」を鑑みたとしても、ハッキリ云って「変態」である。この様な小説を書く川端康成と云う人は、もし小説家に為っていなかったとしたら「性犯罪者」に為っていたのでは無いだろうか…と思える程だ(笑)。

自分の足の形にコンプレックスを持ち、女生徒と関係を持った末に首になった元教師の銀平(ストーカー)の、心の奥底に暗く横たわる「みずうみ」は、様々な形で何度も文中に登場する。醜い自分が無様にも「美」を追い求める様子は、「ベニスに死す」(拙ダイアリー:『「疫病」、或いは「美」と「芸術」の神が微笑む時』参照)と非常に近い物があるが、唯一の違いと云えば、恐らくその「みずうみ」に代弁されるモノが、「母親」と「郷里」への郷愁と憧れなのでは無いか、と云う点である。

川端康成の幼少期は、かなり寂しい。2歳で父を、その翌年母をも亡くした為に祖父母と住み始めるが、7歳の時に祖母を、そして10歳の時に姉を亡くす。15歳の時に滔々祖父を亡くしてしまう為に、中学時代から寄宿舎生活を余儀なくされる。この少年時代の家族との「絶え間ない別離」が、少年川端の心に深く大きく、そして虚ろな「穴」(みづうみ)を開けただろう事は、容易に想像できるだろう。

日本美術畑の人間として、この「家庭的『愛』に恵まれなかった少年時代」で思い出すのは、陶芸家の「北大路魯山人」である。魯山人の方が川端より一世代上であるが、両者ともその類稀なる芸術的才能と共に、若く美しい女性への強い憧憬(云い換えれば「執拗さ」:「眠れる美女」が良い例だろう)や古美術品への嗜好(「千羽鶴」)など、共通する点が幾つも見受けられるが、これらは恐らく彼らの少年時代に於ける、特に母親からの「愛の欠損」から来るものでは無いだろうかと思う。

川端の骨董コレクションは有名で、国宝(池大雅与謝蕪村「十便十宜帳」、浦上玉堂「凍雲篩雪図」)迄持っていた程であるが、このノーベル賞作家の古美術品に対する執念は末恐ろしく、代金を払わずとも気に入った作品は手元に置き(あの眼光で睨まれると、大概の骨董屋は作品を置いて行ったと云う:笑)、作家が亡くなった時には骨董屋が大挙して家に押しかけ、代金未納の作品を他人に盗られる前に持ち帰ろうとして騒ぎになった程であった。

そう考えると、この「みずうみ」に描かれた主人公の「美少女への偏愛」は、彼に取っての「女としての人生上の、ほんの一瞬の『華』の時代」への執着で有り、成る程骨董品の「美」の如く、その一瞬を逃したら「もう二度と手に入らないかも知れない」と云った、「その一瞬」を手に入れたいという極限的欲求とも理解できる。

しかし川端の文学は、勿論「雪国」も良いが、この「みずうみ」や「眠れる美女」、「千羽鶴」の様な「妖艶な人間関係を『美』とする」作品の方に、寧ろ魅かれる。「女」と「美術品」に対する異常な執着…川端康成と云う小説家は、正に「美のストーカー」と呼ぶに相応しい…そして「執着」が無ければ、小説等到底書けないのかも知れない。