ゲルギエフ指揮:マーラー「交響曲第五番」@カーネギー・ホール。

人は何故「音楽会」と云う物に、自らの時間と金を費やして迄、行こうとするのだろうか。

昨日カーネギー・ホールの「Tier 1」(バルコニー)の中央やや右で観聴した、ヴァレリーゲルギエフ指揮・マリインスキー交響楽団に拠るマーラーの「交響曲第五番」は、図らずもその答えを教えてくれた様な気がする。

平日金曜日の朝11時からと云う、「何を考えているのだ」的スケジュールにも関わらず、カーネギーには多くの人が詰め掛けた。斯く云う私も「この為」に休みを取った位で有るから、期待度の高さも窺えるであろう。

席に着くと、前方に有った空席も大勢の子供達が座り、途端に一杯に為る。あんな子供の頃から「ゲルギエフマーラー」を聴けるとは、何と幸せな子供達なのだろう!そんな子供達の中には、音楽会中ずっと演奏に合わせて一生懸命手を振り、指揮をしている子が居たりして、演奏中ノリの良い箇所になると、思わず動き出しそうになる手や体を必死に抑え、敢えて神妙な顔付きを作って聴いている振りをしている私からすると、本当に羨ましかった(笑)。

暫くすると、拍手の中オーケストラが入場…全員「黒」で決め、男性楽員は白のボウタイ姿。見渡すと1人だけ「アジア人」らしきヴァイオリンが居たが、メンバー表を見るとオーケストラ「全員」がロシア人らしい。因みに、1人非常に美しい女性チェリストが居り、目が離せなくなった事を此処に告白しておく(笑)。

オーケストラが席に着くと、再びの盛大な拍手の中、ゲルギエフが登場。何時もの様に指揮台は無く(跳んだり後退ったり、余りにも動く為だ!)、立ち止まって一礼し、手を振り上げたので演奏が始まると思いきや、そのまま動かず客席の静寂を待つ。そして右手が振り降ろされ、トランペットの「ファンファーレ」が鳴り響き、「マーラーの五番」が始まった。

この「葬送行進曲」で幕を開ける「五番」は、マーラー42歳時の作品。それ迄多用した「声楽」を廃した純器楽曲で、私の最も愛するクラシック曲の一つである。ダイナミックで悲しみと喜びに充ちた「明快な」曲なので、マーラー・ファンからすると「難解さ」に関して物足りないかも知れないが、此方とすればこの曲に於けるマーラーの、生涯改稿し続けた其の「明快さ」が大好きなのだから、仕方が無い。「三部構成」なので、アメリカなどでは「三楽章」となったりしているが、実際には「五楽章」と云って良い、一時間一寸の比較的短い交響曲である。

そして緊張と興奮の「ファンファーレ」第一声に因って、一気に「五番」に引き込まれた私は、既に第一楽章の前半には、不覚にも涙していたのだ!何と云う美しい演奏なのだろう…カーネギーの音響の素晴しさと席位置も手伝い、これぞマーラー、これぞゲルギエフの「音楽」!ヨーロッパの長い歴史の土壌で培われた、「豊饒と頽廃の香り」がカーネギーに起ち込める。カーネギーのクラシックな宮殿風舞台、盛装した白人オーケストラ、そしてこの「五番」…正直「この曲の指揮や演奏は、アジア人やアメリカ人には無理なのでは無いか」と思ってしまった程の、ヨーロッパの、そしてオーストリアの「濃密な空気」を醸し出していたのである。

ゲルギエフの、例えばアバド等に比べるとゆっくりとした、しかもエモーショナルな指揮、時折登場する、ヴァイオリンを廃しチェロとコントラバスで奏でられる、美しくも陰鬱且つ重厚な低音部、クリムトの絵画を想像させる装飾的な管楽器等を堪能しながら、「第五番」は第一部の第二楽章から第二部へと進み、遂に第三部の「アダージョ」(第四楽章)となる。ヴィスコンティの名作「べニスに死す」(拙ダイアリー:「『疫病』、或いは『美』と『芸術』の神が微笑む時」参照)でも用いられたこの曲の旋律の美しさは比類無く、「平穏と祈り」に満ち溢れて、此処でも目から溢れる涙を抑え切れない…この70分間、何度目を拭った事だろう!

こうしてこの日、止め処無く溢れる涙と共に判った事は、この「五番」とは「人生その物」だと云う事である。

少年・青年期(第一部)を、何時の日かやって来る「死」を恐れながら嵐の中で悩み抜き、中年・壮年期(第二部)には、仕事や恋愛、家庭等でも少しだけ充実したりもするだろうが、それでも時折「嵐」は波風を起こし、決して順風満帆と云う訳では無い。

また第三部の美しい「アダージョ」(第4楽章)は「理想の死」で有り、如何に苦難の人生を送って来たとしても、その「死の瞬間」だけは、この旋律の様に「逝きたい」「眠りたい」…其処では、全ての想い出は浄化美化され、それらを抱いて「至福の死」を迎えるのだ。

そして第三部後半の終章「ロンド」で、善も悪も貧も冨も、全ての魂は祝福され天へと昇る…いや、昇らねばならない。日頃キリスト教的な事を殆ど考えもしない、しかし人生に於いて、恐らくは今「振り返る過去」と「死」の中間地点に1人佇む私は、それを確信したのだった。

余りに劇的で、余りに美しく、余りにもヨーロッパ的な演奏を終えたゲルギエフとマリインスキーの楽団員達は、都合8回のカーテン・コールに応え、鳴り止まぬ拍手と喝采に包まれた。そしてこの57歳の指揮者のセクシーさに、目がハートに為りっぱなしだった「元・地獄」「元・勘太郎」妻は、この日を境に「ゲルギエフ第二夫人」妻を名乗る事を宣言したのである(笑)。

そう、人は素晴しい音楽を聴く為に「時間」と「金」を費やし、休みを取って迄「音楽会」に足を運ぶ…それは「人生の意味」を知る「可能性」が有るからなのだ。