16世紀の「第三種接近遭遇(Close Encouters of the Third Kind)」。

寒い…今日のニューヨークの最低気温はマイナス10度、日曜に至ってはマイナス13度だそうだ。それでも今日のシカゴの「最高」マイナス10度、最低マイナス「17度」に比べれば天国で、何時も思うのだが、こんなに寒い所で良くも世界の経済・文化の中心地が出来たなと思う。まぁアートが生まれるには、何処か過酷な厳しさが必要だろうから、頷けない事も無いが…。

さて次回の「日本・韓国美術オークション」は3月23日開催、出品作品300点超の予定だが、その数有る名品の中でも今回の大目玉は「南蛮屏風」と呼ばれる、本間六曲一双の金地著色屏風である。日本美術の専門家ならば、この「南蛮屏風」の説明の必要は無いだろうが、その他の方の為に此処で少しこの「南蛮屏風」について説明しておこう。

16世紀後半、ご存知の通り我が日本国は戦国の世。1543年の種子島への鉄砲伝来、また1549年にフランシスコ・ザビエルに拠るキリスト教伝来に因って、ポルトガル人やスペイン人(ザビエルはスペイン人)が日本に交易にやって来る様になる。

その交易は、1587年にバテレン追放令が秀吉により出された後も事実上黙認され、1624年にスペイン船、1639年にポルトガル船の入港禁止を以って、我国が鎖国状態に入る迄続く。その交易シーンを、劇的な外国貿易船の入港や出航シーン、当時ポルトガルが占し交易基地としていたマカオの街並や日本の、人々や風俗をフィーチャーした屏風絵がこの「南蛮屏風」なのである。

また、「南蛮人」とはその当時日本に来ていたスペイン・ポルトガル人の総称で、英語で云えば「Southern Barbarian」、何処と無く差別語的では有るが、鎖国後出島に許されたオランダ人が「紅毛人」と呼ばれた事を考えると、また当時交易に来ていたラテン系船員達の、日本上陸後の傍若無人の荒くれ振りが容易に想像出来るだけに、この「ネーミング」は当然だったのかも知れない(笑)。

では、この屏風の絵柄を追ってみよう。このダイアリーはアートを記す癖に「画像」を入れない事で有名なので(笑)、構図に関しては本作に非常に似ている、神戸市立博物館所蔵・狩野内膳作の重要文化財(旧池長コレクション)を参照されたい。

先ず「左隻」。画面左には中国風な建物と、象や輿に乗った南蛮人、お茶をしている南蛮人達が右端に見える日本に向けて出航する船を見送っている…舞台は恐らくはポルトガルが当時占していた貿易基地である(想像上の)「マカオ」と思われ、そのマントの様な上着を着て日傘を差され、優雅に輿に乗っているのは、マカオの統治責任者であろう。

そして「右隻」に目を移せば、左端に日本に入港してくる船、上陸した数々の珍しい動物や品物を携えた南蛮人達、そしてそれを出迎える日本人(このプロポーションの違いを見よ!)と日本の民家、右端には屋根に十字架を持つ「南蛮寺」と思われる建物も見える。

しかし、実はこの構図の南蛮屏風に関して、どちらが右左かが何時も議論の的になっているのだ…通常一双屏風の構図からすると、両脇に船が来た方が収まりが良いのだが、画面上の話の流れからするとマカオを出て日本に来る、と云う上記構図の方が正しいのでは無いだろうか。まあ、細かい事はさて置き、何しろ超ダイナミックな構図、ディテールを見れば見る程面白い作品なのである。

此処で本題に入ろう。この南蛮屏風には、当然南蛮人達が数多く描かれているのだが、南蛮人と云っても「白人」だけでは無く「黒人」もかなりの数描かれている(因みに中間色の肌の南蛮人も居る!)。この黒人達は、アフリカから来て奴隷「的」に下働きに使われた黒人達で、この屏風の中では日傘を差したり、輿を担いだり、象を引っ張ったりしており、当然画中の白人達の動向に比べれば階級が下なのは明らかなのだが、それでも黒人達は笑っていたり、船のマストの上で曲芸をしたりもしていて、決して奴隷の悲壮感は余り無い。

話は飛ぶが、最近或る本を読んだ。それは東郷隆著「洛中の露 金森宗和覚え書」(文芸春秋)と云う、所謂「時代物」の連作短編集で、実はこの作家の事は何も知らなかったのだが、所謂タイトル買いをして読んでみたら、ディテールにもかなり凝っていて面白い。題に有るように、「姫宗和」として有名な茶人金森宗和が主人公で、宗和が実は「隠密」だったと云う設定の連作なのだが、その中に「弥助」と題された短編が有り、この話を読んだ時直ぐに思い出したのが、山田芳裕作の漫画「へうげもの」である。そしてこの「弥助」と「へうげもの」に登場する弥助が、今回の「南蛮屏風」に登場する黒人に思いを馳せさせた。

さてこの弥助とは何者か…何と織田信長に召抱えられた「黒人」の事なのである!この弥助は「へうげもの」にも登場し、利休と茶室で向かい合って茶をしたりするのだが(暗い茶室で黒楽茶碗で茶を飲む…その「眼」だけが只白く描かれる)、彼の存在は「信長公記」に「切支丹国より、黒坊主参り候」と有り、天正10年4月19日付の「松平家忠日記」にも「名は弥助、身の丈六尺二寸、黒人男性、身は炭のごとく」と記されているので、確かなのだろうと思う。

元々弥助は、伴天連ヴァリニャーノが信長に謁見した時に連れて来られたらしいが、その時の様子が(恐らくフィクションも入っているだろうが)小説「弥助」に詳しく描かれている…何しろ信長は、この弥助の体が黒いのは、体に「墨」を塗っているからだと考え、家来に弥助の体をゴシゴシと洗わせたが一向に色が落ちず、不思議がり面白がって召抱えたと云うのである!

しかしこの話は余りにリアルで、何故なら16世紀の日本人に取って南蛮人、ましてや黒人との遭遇は、21世紀の我々に取っての「エイリアン」との遭遇くらい、時には恐ろしく、時には好奇心をそそられる事件だっただろうと想像するからだ。因みにこの弥助は、小説では「イスラーム」なので肉類を一切食べず、また実際非常に性格が良かったらしく、信長の子供の面倒を見たりもして、すこぶる評判が良かったらしい…この辺も「南蛮屏風」に描かれる、陽気な黒人の姿とマッチしている様に思われて、非常に微笑ましい。

日本の屏風は、観る者を何時もその時代に「タイムスリップ」させてくれるが、この「南蛮屏風」は、16世紀の日本での「未知との遭遇」を経験させてくれるのである。