「サロメ」と云う生き物@新国立劇場。

時の流れは早く、お陰様でこのダイアリーも、今日から何と「4年目」に突入した。

こんなに長く書き続ける事が出来たのは、何とも奇跡としか云い様も無いが、これも日々叱咤激励をしてくれたゲル妻や友人達、そして読者の皆さんのお陰で有る。何時迄続けられるか判らないが、この度「3周年」を迎えたアート・ダイアリー…


これからも何卒、おん願い奉りまするぅ〜!(いよっ、桂屋!待ってました!)


さて今、筆者は成田のラウンジに居る…長い旅に終わりを告げ、これからニューヨークへと戻るのだ。

そんな日本での最後の日々、一昨日はひと仕事終えた後、かいちやうを訪ねて今年始まってからの「皆勤茶」を頂き、お茶の後は2人ダッシュで蕎麦を啜り、向かった先は新国立劇場…舞台「サロメ」を観る為で有った。

オスカー・ワイルド原作のこの余りにも有名な戯曲は、1896年のその初演以来世界中で幾度と無く上演されて来たが、今回の公演は演出宮本亜門、新翻訳平野啓一郎、主演多部美華子、衣装ヨウジヤマモト…期待しない訳には行かない。

劇場に着くと、平日にも関わらず満席の様子で、人気の程が窺える。ステージは客席前に深い「溝」が有る為、一見浮いた感じに見えるが、その上を見上げると鏡が斜めにセットされて居て、非常に現代的な造りに為っている。

そして「サロメ」は、会場の唐突な暗転と共に始まり、しかし見終わってみると、何しろ全く飽きる事の無い「100分間」で有った!

宮本亜門の斬新な演出は、初っぱなのシーンで、パーティーに厭き厭きしたサロメの顔が、舞台上手に置かれた大きなテレビ・モニターに映し出される処から、ヨカナーンが幽閉される「地下」の牢屋とバルコニーの往き来、現代に置き換えられたパーティーでの「影」の用い方、客や家来のコスチューム、最後の「血の海」のシーン迄冴え続け、見応え充分。

役者達はと云うと、サロメ役の多部は気合いが入り、台詞が一寸一本調子な処も有るが、高慢で純潔、そして「色気付き始めた」思春期の少女を熱演。ヨカナーン役の成河も、舞台人らしいスッキリとした演技、またヘロディアの麻美れいは、貫禄の舞台女優としての演技力を見せつけた。

唯、ヘロデ役の奥田瑛二の声が掠れてしまっていた上に、何故か彼が全く「王」らしく見えず、しかもサロメに対する「エロさ」が足りない、と思ってしまった…残念で有る。それともう1点、これは個人的な意見だが、最後の最後で登場するヨカナーンの「首」だが、あれを何か別の象徴的な「モノ」に替えられないだろうか…如何だろう?

平野氏の新訳台本は、最近光文社古典新訳文庫から出た本を読んでから観に行った所為も有って、役者に命を吹き込まれた台詞に変貌しても、非常に解り易い。

特にサロメの持つ少女性と小悪魔性、そして娼婦性を非常に考慮してシンプルに訳された台詞は、ヘロデがサロメに対して持つ「ロリータ癖」を際立たせると共に、処女と童貞、兄と妹、私ともう一人の私と云った曖昧な関係性を持つサロメとヨカナーンの、純潔な故に極めて「『不純』な」結果を産み出してしまうと云う、「純潔性の不純な末路」を観る者に知らしめるのだ。

少女の持つ高慢、羞じらい、背伸び、性への好奇心、思い込み、そして自尊心…「女」と云う生き物に為る前に、ほんの一瞬だけ存在する「サロメ」と云う生き物。

男は、女性の持つ「サロメ性」に十二分に気を付けねば為らない。また、決して女性に「何でもくれてやる」等と誓っては為らない。

そして、余り女性を「見詰めて」はならない…如何に「愛の神秘は、死の神秘より大きい」としても…何故なら、見詰める事に因って自分を見失い、きっと「災い」が起こるからで有る。

そんな自戒の念を強めた(笑)、素晴らしい舞台で有った。

その後、現ニューヨーク在住日本美術スペシャリストの夜は、元ニューヨーク在住ジャズ評論家O氏宅にお邪魔し、日本美術に相当に詳しい奥様に拠る、そこいらのレストラン等決して敵わない味の手料理を頂きながら、元パリ在住の作家H氏、現パリ在住写真家S氏と深夜迄ジャズ、文学、美術、政治、宗教に就いてご家族共々語り合ったのでした。

Adieu, Japon !