Pooさんを聴きながら、茶碗を想う。

最近ゲル妻が「プーさん」ことジャズ・ピアニストの菊地雅章氏から貰って来た、「At Home Project(1)」と云うCDを、此処の所毎日の様に聴いている。

行き付けの店のカウンターで会うプーさんは、何回かの大病を乗り越えて来た所為か、こう云っては何だが「其処らのオッサン」にしか見えない。

が、しかし、このCDでのプーさんのインプロヴァイズド・ピアノ・ソロを聞くと、その研ぎ澄まされた感性と拡がり消え行く1音1音の美しさは、その辺の流行りのピアニストやチャラチャラした音楽家等、チャンチャラ可笑しく為る程に素晴らしい。

そんなプーさんの演奏を聴きながら最近想うのは、何故か「茶碗」の事で有る(笑)。

ご存じの通り筆者は茶人でも無いし、正式に茶の湯を習う予定も無い。偶に勉強の為に小さな美術品を買ったりもするが(美術品と云う物はただ観るよりも、買い、所有する事に因って学ぶ事が、非常に多い)、それは主に仏教・神道美術だったり現代美術だったりするので、茶道具とは縁遠い。

が、そんなワタクシでも、お抹茶を点てて飲む事だけは何時からか「日課」と為っていて、そうなると、毎日自分の手と口に触れる「茶碗」と云うモノに関して、非常に身近に感じ、且つ思い入れも出て来ようと云うモノだ。

そして曲がりなりにもお茶を飲む者に取って、気に入った茶碗に出会い、それに惚れて買い、両掌(たなごころ)に収めて毎日一服のお茶を頂く悦びは、何物も代え難い。

「茶碗」…あぁ、何と魅惑的な響きなのだろう!

さて或る日、或る茶碗が筆者の目の前に出現し、

「コイツを所有してみたい…コイツに触れたい…コイツに口を付けてみたい…。あぁ、オマエが欲しい!」

と、まるで「好み『ド真ん中』の美女」(笑)が現れたが如く恋焦がれて、「その日」を夢見、財布の中の現実も顧みずこんな欲望を持ったが最後、何時の間にか不思議と「夢」は「夢」で無くなり、「若しかしたら、コイツを手に入れる事は可能なのでは無いか?」と云う、何の根拠も無い「目標」へと、錯覚し始めて仕舞うので有る。

そして、その最大の難題とも云うべき支払いの算段が、どう引っくり返っても出来ない程の値段なら却って傷は浅い。

「俺には出来過ぎのモノだ」「何時か全財産を売り払って、コイツをモノにしてやる」「出逢った時期が悪かった…只、縁が無かったのだ」

等の、センチメンタル極まり無い慰めを自分に云い聞かせ、涙を拭うだけで済む。

しかし、で有る…(笑)。その茶碗の値段が無理をすれば支払える額だったり、持ち主が長期の分割払いを認めてくれる、「優しい悪魔」的古美術商だったりすると、却って深みに嵌まって仕舞うので有る。

つまり、その茶碗を買う為に、嘗て愛し生活を共にして来た幾つかの骨董を処分したり、手元不如意のキャッシュをかき集めたりすると云った、苦渋に満ちた決断をせねば為らなくなるのだ。

が、今日はそんな決断も必要の無く「絶対に手に入らない」と云う意味で安心出来る(笑)、筆者の浅薄な知識内での「欲しい!」茶碗を此処に挙げてみよう。

先ずは唐物。が、茶人でも無いワタクシは、唐物には全く興味が無く、欲しいモノも無い。

次に高麗茶碗…これは大変だ!大井戸や井戸の様な風格有るモノ、また粉引や三島等よりも、個人的には古井戸の様にピリッと締まった感じの茶碗の方が好みなので(女性の好みが茶碗にも出るのか?:笑)、観るだけで涎の出る「六地蔵」(泉屋博古館蔵)や「老僧」(藤田美術館蔵)、そして「はつ霞」(個人蔵)を挙げて置こう。

そして和物茶碗。これは以前此処にも記したが、何と云っても個人的に長次郎の最高傑作と思っている、滔々「国」のモノに為って仕舞った(涙)、唯一無二の黒茶碗「ムキ栗」(拙ダイアリー:「どんな『お茶碗』が、お好きですか?」参照)。

楽でもう一碗挙げれば、かなり渋いが長次郎の赤茶碗「つゝみ柿」(個人蔵)、他の和物と云われれば瀬戸黒の「小原女」や古唐津の「真蔵院」(個人蔵)、無地志野の「大古久頭巾」(逸翁美術館蔵)、そして古萩の「雪獅子」(個人蔵)だろうか…。

こう書いて来ると、自分の「欲しい茶碗リスト」には、意外に「個人蔵」が多い事に気が付いたのだが、これは所謂「チャンス到来」と云うヤツでは無いか(笑)?

ウーム、一体どの茶碗にしようか…!?

古人曰く、「馬鹿は死ぬ迄治らない」と(再笑)。