天才は、忘れた頃にやって来る。

最悪の展開と為ってしまった…。

それは「維新の会」と「太陽の党」が合併した事で、しかも会長は石原氏だと云う。これで私的には、この新「日本維新の会」への投票は無くなったが、その理由は云う迄も無いだろう…全く以て最悪だ。

この侭では、何処にも投票が出来ない感じだが、どうしたら良いのだろう…「第三極」亀井氏にでも期待するか?

そんな週末金曜日は、最重要顧客とのランチを経て、夜は森美術館で土曜から開幕した「会田誠展:天才でごめんなさい」のオープニング・レセプションへ。

5時からの内覧会に合わせて森美術館に行ってみると、もう多くの人が来ていて大盛況…そして自称「天才」の作品を観終わった感想は、やはり会田誠は「天才」だったという事だ!

会田誠の作品は素晴らしく過激で、目を見張る程にスゴい。が、好きかと言われると、どうだろう?…例えば「紐育空爆之図」や「ジューサーミキサー」は大好きな作品だし、「一日一善」や「灰色の山」も傑作も良い所で、作品として完成度も抜群だ。

しかし「貴方は、会田誠の作品が『大好き』ですか?」と聞かれると、少々返事に困る所があって、それは会田の作品が勿論良い意味での、恐ろしく卓越した「コンテンポラリー・アート」だからなのかも知れない。

会田の作品は、観る人と好む人を制限する…しかしそれは、この展覧会にも設置された「オトナ部屋」に展示された作品の様な、「R指定」や「18禁」と云う意味では無く、テイストと意図の理解度のレヴェルという意味なのだが、しかし筆者にはそれらは全くの許容範囲で有るし、逆に共感部分も多い。

そして痛烈な社会風刺や批判、強烈な性的表現等を、不愉快・品の無さに至るギリギリの線で「コンテンポラリー・アート」として抑え込む会田作品の芸術レヴェルの高さにも、疑いの余地は無い…が、「大好き」と云えない理由は簡単で、自分の家に「欲しい」と思わないからだ。

狩野派、長谷川派、琳派等の過去の作品をベースに、ピンクチラシで再構築した屏風作品や、「犬」等の「少女」への執着作品、バカバカしくも見入ってしまう「ヴィトン」や「日本に潜伏中のビン・ラディンと名乗る男からのビデオ」、北斎への傑作エロ・オマージュ作品「巨大フジ隊員VSキングギドラ」を、本当に自宅に飾りたいと思うだろうか?

しかし、そんな事は大した問題では無い…上記の様な「家に飾れない」作品は美術館で観れば良いのだし、況してや卓越したコンテンポラリー・アートは、ポピュラーで有る必要等全く無いからだ。

そして芸術家は「ごめんなさい」と謝る必要も全く無いし(勿論、皮肉と判っているが)、誰にペコペコする必要も無い…会田誠は紛れも無い、突き抜けた天才現代芸術家なのだから。

レセプション後は、作家H氏と弟の店「神田いるさ」で何時もの「憂国談義」と為ったが、翌土曜日は、前日の会田展レセプションでも姿を見掛けた写真家の展覧会を観に、オペラ・シティ・アート・ギャラリーへ…「篠山紀信展 写真力」で有る。

さて、篠山紀信に関する個人的な思い出と云えば、飯倉「キャンティ」「激写」「GORO」「135人の女ともだち」「Water Fruit」、そして「Santa Fe」だろうか。

高校・大学時代に背伸びして通った、飯倉に在るイタリアン「キャンティ」のカフェで、何度か見掛けた(話した事も有る)篠山紀信は、何時も美しい女性と一緒だったし、親に隠れて毎号買い、机の引き出しに隠していた「GORO」や「激写」、森下愛子等の女優達も良いが、素人の女の子のヌードが眩しく、生々しく、エロティックだった「女ともだち」、大好きな樋口可南子のムーディーなヘア・ヌード写真集からは目が離せず、宮澤りえの裸には興味は無かったが、「Santa Fe」は発売直後からプレミアが付いて居て、今の仕事を始める前、広告会社を辞めた時の「餞別」として同僚から貰った事も懐かしい。

今回の展覧会は、ポートレイト展。大きく引き伸ばされた有名俳優や歌舞伎役者、バレエ・ダンサーやスポーツ選手、そしてモデル達だが、最も印象深かった作品は4点…即ち「三島由起夫」(「サン・セバスチャン」でない方)、「市川新之助(現海老蔵)」、「ウラジミール・マラーホフ」の連作、そして云う迄も無く巨大な「優ちゃん」、で有る(笑)。

篠山の肉体への眼差しは生々しく、鋭い…そしてそれは、時にはタイツに阻まれたダンサーの鍛え抜かれた肉体を、或いは美しく被服された女優の艶かしい肉体を、各々の「鎧」から剥き出しにするのだが、この写真家は、それを被写体自身にさせて仕舞う天才なのだ。

天才は、忘れた頃にやって来る(笑)…そして天才は、理解され辛いモノで有る。