「老婆」に為っても「A.I」に為っても、女は女で有る。

やっとニューヨークに戻って来た。

帰りの機内では、不眠の為の相変わらずの映画三昧だったが、疲れ果てて居た為何を血迷ったか「テラスハウス」を観て仕舞い、そのレベルの低さに愕然としたのだが、もう1本観たSFスリラーの方は大層気に入った…その作品とは英国制作、アレックス・ガーランド監督処女作の「Ex Machina(エクス・マキナ)」。

僕は、例えばイーサン・ホーク主演の「ガタカ」やユアン・マクレガーの「アイランド」、ジャスティン・ティンバーレイクの「タイム」やトム・クルーズの「オブリビオン」等の、映像が美しく劇中にスタイリッシュな建築やセンスの良い室内装飾が出て来る近未来SF作品が大好きなのだが、本作もサーチ・エンジン会社を興した大富豪天才ファウンダーの住む美しくもカッコ良い家や、其処に飾られるポロッククリムト、ハンス・コパー等の厳選されたアート作品、そしてその家を取り巻く美しく雄大な自然風景がふんだんに描かれて居て、僕の眼を楽しませる。

そんな本作の物語は、その天才ファウンダーがサーチ・エンジンのメソッドから開発した美しいA.I.(アンドロイド)の性能をテストすると云う目的で(これ自体、タイレルデッカードを呼んでレイチェルをテストさせる、「ブレード・ランナー」へのオマージュだろう)、彼の山奥の豪邸に招かれた1人の男性社員とA.I.、ファウンダーの3者の心理戦を描くサスペンスで、素晴らしいCG技術と「密室」で繰り広げられる「恋愛心理ドラマ」の展開も良く出来て居る。

これ以上内容は此処に詳しく書かないが、本作を観終わった後の僕の個人的感想は、『「女」とは、アンドロイドだろうがA.I.だろうが、結局「女」で有り、男の思う様には決して為らない』と云う事なのだが(笑)、それはさて置き一見の価値有る作品だと思う。

さて本題…先週末の日本での最後の日々も多忙で、例えば金曜日は関西出張と東京での重要作品の査定を済ませ、夜は久し振りに古い付き合いの病理学者の友人と新宿の居酒屋で会い、旧交を暖めた。

彼はロックフェラー大学留学の後日本に戻り、最近某医大の准教授になったそうで、そんな目出度い話題から彼の専門分野で有るMERS等の感染症プリオンアルツハイマーの発症原因等に就て聞き捲ったが、異分野の人の話程刺激的なモノは無い。

翌土曜日は国分寺の実家に戻って母手作りの昼食をゆっくりと食べ、その後は霞町へと向かい、ギャラリー桃居で開催して居た「内田鋼一 陶展」を観る。

ギャラリーには、現在実力NO.1と云っても過言では無い陶芸家の、色々な土や釉薬で仕上げられた美しい急須や土瓶が並んで居て涎が出たが、オープン初日には開店前から40名程が並び、全作品が初日午前中には売り切れて仕舞ったそうで、残念ながら買う事能わず。

その後は「代官山の『前のめり』ベルナール」と陶芸家氏と連れ立って、新しく千駄ヶ谷にオープンしたTomio Koyama Galleryのオープニングへ。

嘗てスイスのヘルツォーク&ド・ムーロンに居た友人の建築家I氏に拠って内装された、入り口も一寸小さな隠れ家的ギャラリーには、アウトサイダー・アート系のアメリカ人作家ジェイムズ・キャッスルの作品が並び、レセプションには知人・友人も多数居て盛り上がる。

レセプション後は同じ3人で西麻布の和食屋「N」へ行ったのだが、其処だけでは飲み足らなかった僕ら(正確には内2名:笑)は白金「M」に場所を移して、アートや酒鬼薔薇の悪魔の出版、喧嘩の作法等に就て、夜半過ぎ迄「前のめり」気味に語り合った(笑)。

そして出発前日の日曜日は、朝イチから初台に向かい、オペラシティ・ギャラリーで開催中の「高橋コレクション展 ミラー・ニューロン」をやっとこさ観る。

高橋コレクション中の作品は今迄何作品も観ては居るが、これだけ重要作品が並ぶと矢張り壮観で、例えば加藤泉の巨大木彫「無題」や横尾忠則の「死の中の生」、会田誠「ジューサー・ミキサー」や奈良美智「Candy Blue Night」、西尾康之の「Crash セイラ・マス」等、素晴らしい作品だと最確認。

展覧会を観終わると初台を後にし、今度は千駄ヶ谷国立能楽堂へと急いで向かう…僕に取って今滞在3回目の観能と為ったのは、「五十五世梅若六郎 三十七回忌追善能」で有った。

某美術館学芸員氏と待ち合わせて会場に入ると、流石の超満員。それは当代一の名人梅若玄祥師が、最も重く滅多に掛からない曲で有る処の「関寺小町」を舞うからなのだが、囃子方も亀井忠雄、大倉源次郎、藤田六郎兵衞各師の豪華メンバーが揃い、嫌が上にも期待が高まる。

そうして今回の追善能は13人の連吟「融」で始まった…が、驚いたのは出演者の名前が事前に全てアナウンスされた事。これは僕の観能人生でも初めての経験だったが、開演前の緊張感をブチ壊すこんなアナウンスは無い方が宜しい。

続いて仕舞が2番有り、狂言宇野信夫原作の新作狂言「霜夜狸」…これは狂言と云うよりは「鶴」ならぬ『「狸」の恩返し』的な唯暖かいお話で、可笑しみも皮肉も無くてイマイチ…僕は「最後に砂金を貰う老人も、実は狸だった」と云う「騙し合い」的なオチだとばかり思って居たので(笑)、シラけて仕舞う。

が、待望の玄祥師の「関寺小町」はもう最高に素晴らしく、例えば後場で小町が舞って居る最中にシテ柱に殆ど寄り掛かる様に立ち、両手を胸に合わせて佇む姿等、もう涙が頬を伝って仕舞った程だった!

さて僕がこの「関寺小町」を観たのは半世紀の人生で(たった)2度目で、前回観たのは30代の後半頃。そんな僕が今回深く感じた事は、やはりこの重習いの曲は演じる者に取っては長い経験と大変な修練が必要だが、観る方に取っても中年・老年と年を取り、深い人生経験を積んでから観ると、感じ方が痛烈に異なると云う事だ。


移ろふものは世の中の、人の心の花や見ゆる。
恥かしやわびぬれば、身を浮草の根を絶えて。
誘ふ水あらば今も、いなんとぞ思ふ恥かしや。 
実にや包めども、袖に溜らぬ白玉は、人を見ぬ目の涙の雨。
古事のみを思草の、花しをれたる身の果まで、なに白露の名残ならん。


女性は萎れた花の様な老婆に為っても、はたまたアンドロイドに為っても、女の「名残り」を残す…男もそう有りたい、と思うのは僕だけだろうか?