「プーさん」と、どら焼き。

新歌舞伎座の公演が、愈々始まった。

筆者の家族は、その初日の公演を「桟敷」で楽しんだと云う…あぁ、何て俺はツイて居ないのだろう!最低気温が未だマイナスのこの時期に、ニューヨークに居なきゃならないなんて!(涙)

しかし、そんなニューヨークでも少しは良い事も有ったのだから、嘆いていても仕方無い…その「一寸良い事」とは、「ホセの帰還」だ!

ホセに就いては、拙ダイアリー:「ホセの喪失」の回を参照頂きたいが、彼が僕の目前に再びその姿を現したのは、つい最近の事。以前と同じ46丁目の階段に座っている彼を見つけた時、余りの嬉しさに飛び上がりそうに為ったが、しかし未だに声も掛けられずに居る…僕等はきっとそう云う運命に在るのだろう。

此処で今日の本題…ジャズ・ピアニストの「プーさん」(拙ダイアリー:「Pooさんを聴きながら、茶碗を想う」参照)こと、菊地雅章氏を訪ねて一杯遣って来た。

プーさんは、1939年生まれだから今年74歳…ジャズ・ファンには今更彼のプロフィールを語る迄も無いだろうが、今の若い人は「プーさんって、誰?」と云う人も居るかも知れないので簡単に説明すると、プーさんは秋吉敏子と共に、ジャズ史上アメリカで最も活躍している日本人ミュージシャンで、共演したアーティストは60年代にツアーに帯同したソニー・ロリンズを始め、70年代にはマル・ウォルドロンジョー・ヘンダーソンエルヴィン・ジョーンズギル・エヴァンス、更にゲイリー・ピーコックマイルス・デイヴィス(マイルスとはセッション録音が有る)等、超大物揃い。

そしてプーさんの音楽は、ビバップやマイルス影響下のファンク、クラブのDJにも愛されたシンセサイザー・ミュージック、そして僕が家でしょちゅう聴いている大好きな「ソロ」等多岐に渡るが、その人柄も、優しく喧嘩っ早く、ロマンティックで複雑な、愛すべき「これぞアーティスト!」と云ったオジサマで有る。

友人のピアニストH女史等と3人で、お酒と肴を抱えて、プーさんの住むチェルシーのアパートを訪ねる。何階かを過ぎてエレベーターが止まり、ドアを開けて降りると、其処はもう「プーさん・ワールド」…置かれたシンセサイザースタインウェイの脇を通り過ぎると、楽譜やコンピューター、CDだらけの奥の部屋でプーさんが僕達を迎えてくれた。

早速ワインと好物のチーズを開け、皆で乾杯。すると何時からかプーさんの近況の話になり、最近のライヴやレコーディング、心配して居た健康状態等に話が及ぶが、この晩のプーさんはここ数年の間に大病をした様には見えない程、元気そうで安心する。

赤ワインとチーズと共にプーさんが語る、例えば東京空襲の際、未だ4歳位だったプーさんが一面焼け野原に為った小岩で、配給を待っていた時に見た銀座の服部時計店の鉄骨の話、喧嘩をしたり意見の違いを譲らず「クビに為った」仕事の話の数々(某製薬会社に拠って、ディヴィッド・サンボーンが降ろされずに、プーさんの方が降ろされた事も!)、亡くなった名ドラマーだった仲間のポール・モチアンの話、隣室のパーティーの余りの煩さに、木刀を持って殴り込みに行った武勇伝、ニューヨーク迄プーさんの為に、そしてプーさんのピアノの為に日本から遥々来ていたが、最近亡くなってしまった調律師の思い出話等々、「最近記憶力が悪くてなぁ…」と云いながらも出てくる話は、聞く者を全く飽きさせない。

さて、ピアニストとしてのプーさんの名演は、例えば「Nature Boy」や「Gumbo」等もう数限り無く有るのだが、僕の個人的趣味で云えば、やはり富樫雅彦との「All the Things You Are」や「Tosca」、「In Love in Vain」等の繊細で透明極まり無い、一音一音に魂の宿るソロ・ピアノ、若しくはトリオに強く惹かれる。

嘗てマイルスが、プーさんを評して「One of my favorite pianists with Keith (Jarrett)」と云ったのは有名な話だが、僕の愛して止まない曲「In Love In Vain」(→http://www.youtube.com/watch?v=c1iL1vA0pxs)や、「Ballad I」(→http://www.youtube.com/watch?v=_MLMK50R2O8)を聴くと、プーさんの音楽への情熱の一雫一雫が、まるで氷窟の鋭い氷柱から漏れ出す水の様に鍵盤の上に落ち、それ等が共鳴して産まれる、究極的且つえも云われぬ透明感に溢れる1つ1つの音の美しさは、正直云ってキースの比では無いと思う。

食後のデザート用に「どら焼き」を持って行ったら、「これ、上野のヤツか?」とプーさんが僕に聞いた。が、この日持って行ったのは、ロックフェラー・プラザに在る会社の近所で買った物だったので、「今度日本に帰ったら、同級生のT君がやって居る上野の『うさぎや』から、必ず『どら焼き』を買って来ます!」と約束すると、プーさんは眼鏡の奥の細く厳しい眼と顔を綻ばせ、ニッコリと微笑んだ。

僕は日本人の、いや、現存する如何なる世界のジャズ・ピアニストの中でも、プーさん以上の「天才」を知らない。

その意味でも、プーさんには長生きして貰いたいし、演奏を続けて貰いたいと心から願う。そしてその為なら、僕は「どら焼き」を何個でも、何回でも買って来るだろう…。

プーさんの生み出す「音」を聞いた事の無い若いミュージシャンの為に、そしてプーさんのライヴを待ち望む、僕を含めた世界中のジャズ・ファンの為に。