多武峰と「談山能」@談山神社。

ロンドン→ニューヨークの旅を経て、18日に日本に来た。

日本着の翌日には、早速行動開始。昼の「スター・フライヤーズ」便で向かったのは「関空」(因みにどうでも良い話だが、この航空会社のアテンダントは、美しい…本当にどうでも良い話だ:笑))、最終目的地は奈良県桜井市…昨日談山神社で開催された「多武峰 談山能」を観る為で有った。

さて、態々このお能に来た訳は、前回日本に来た時に遡る。その滞在中、偶々タイミングが合ってスーパー能「世阿弥」を国立能楽堂で観る事が出来たのだが(拙ダイアリー:「『杮落し』公演と『スーパー能』、そして『彷徨えるパンケーキ人』のリヴェンジ」参照)、その際日頃よりお世話に為って居る小鼓大倉流宗家、大倉源次郎師に「孫一さん、是非居らっしゃい!」と誘われたのが、去年も行きたくて仕方の無かったこの「談山能」だった。

能の神様のお陰か、タイミングこそバッチリだった訳だが、何しろ今回はロンドン→ニューヨーク→東京→多武峰と、全て「1日置き」に移動して来た訳で、もう「此処は何処…私は誰?」状態(笑)。然も多武峰に着いて見ると、結構本降りの雨だったので午後の観光は中止し、談山神社の目の前に在る多武峰観光ホテルにチェックインすると、部屋で「前夜宴会」迄仮眠を取る事に。

仮眠後は源次郎師と談山神社の長岡宮司にご挨拶をし、7時に宴会場(何と「『万葉』の間」だった!:笑)へと出向くと、40名を超える大宴会。観世清和宗家や観世銕之丞師、梅若玄祥師、大槻文蔵師等シテ方の重鎮や、銕仙会の若手で、琴欧州の義兄でも有る旧知の安藤貴康君にご挨拶し、名物の「義経鍋」に舌鼓を打つ。

宴は源次郎師の軽妙な司会、長岡宮司の挨拶、そして宗家の乾杯でスタートで始まり盛り上がったが、上記「シテ方四天王」のテーブルにお邪魔した折には、世阿弥の如き「能役者が作るべき、新作能」や、「束縛の芸術」(視界の悪い能面や自由の効かない装束、「型」を継承する事に依ってのみ出て来る個性等)としての能、日本に於ける伝統文化の継承の重要さ等に就いて率直な意見を伺う。

因みに、先日観た「スーパー能」での現代語に拠る謡の様に、例えば節付けや楽器も将来変わる可能性が有るのだろうか?と云う筆者の質問には、600年間お能の楽器に琵琶や鎌倉期には日本に入って居た三味線が入らなかった事を考えねばならないし、何処迄を「能」と呼び、何処からを「演劇」と呼ぶかも問題に為る。

また「束縛」からの解放の話で、以前此処にも記した(拙ダイアリー:「能の面(おもて)」参照)「弱法師」の様な盲目の面を掛けて舞う曲では、シテ方は殆ど目と瞑って演じると云う事等、非常に示唆深い…真の解放とは、己を追い込む処に有るのだ。

宴会後は、7月8-9日にパリ近郊シャンパーニュ地方の古城で開催される、観世宗家に拠る「翁」を中心とした演能イヴェント、「能フェスティバル in フェール城」(シテ方は宗家と玄祥師、囃子方藤田六郎兵衛、大倉源次郎、亀井広忠、観世元伯各師のオールスター・キャスト。演目は「翁」「融」「羽衣」「土蜘蛛」)に関する打ち合わせに何故か参加させられ、此れは夜中過ぎ迄…筆者の時差ボケも、究極状態と為った(涙)。

その所為で夜中に2回起きて仕舞った末、久し振りに寝た「足が出てしまう『布団』」から早朝這い出て窓の外を見ると、雨は上がり、大和の国らしい深い靄が山を包んで居た。シャワーを浴び、7時半の朝食の時間迄散歩をする事にしたが、雨を吸い緑を濃くした深い山は、筆者の疲れた体と精神をかなりリフレッシュしてくれる。

そしていざ、午後1時の演能迄の社寺巡りへ…先ず向かったのは、大神神社(おおみわじんじゃ、別称:三輪明神)。この大神神社は、大物主大神を祀り、三輪山御神体として奉斎して居るため、古来本殿を持たずに拝殿(現在の物は1664年造:重文)を重要視して来た、日本でも最古の社の一で有る。

この大神神社で観るべきは、何しろ「三輪鳥居(三ツ鳥居)」だろう…拝殿の奥正面に、禁足地と拝殿を区切る結界としての鳥居は、明神型の鳥居3つを1つに組み合わせた非常に特殊な物で、今以てして何時頃、どの様にしてこの形式が出来たのか不詳なのだが、「古来、一社の神秘也」と伝わる程に神聖化されて来た所が、実に面白い(「ガリレオ」風に)。

大神神社を後にすると、今度は安倍文殊院へ。この寺は、大化の改新時に左大臣に為った安倍倉悌麻呂が創建し、安倍仲麻呂安倍晴明が出生した寺院で、我が国の陰陽道の源流と云って良い。

此処での白眉は、日本最大の総高7mにも及ぶ快慶作国宝「渡海文殊像群」だ!胎内墨書に因ると、快慶が建仁3年(1203年)に造立、また胎内から見つかった造立願文に因ると、承久2年(1220年)に開眼法要された事が分かっている、非常に重要且つ力強い大作で有った。

安倍晴明と敵対した陰陽師を先祖に持つ(らしい)筆者は、この寺のファウンダーと関係が有る(らしい)との噂を聞いた現総理が、早く正気を取り戻す様、ご先祖様にきつくお願いをして来ました(笑)。

そして今回の寺社巡りの最後は、聖林寺。元来談山妙楽寺の別院として、712年に建立された古刹だが、此方では云わずと知れた、天平時代の息を飲む程に美しい木心乾漆「十一面観音菩薩像」が観る事が出来る。豊満且つ均整の取れた体、優美な纏衣と指等、フェノロサや天心で無くとも感動するで有ろう、何処を取っても素晴らしい仏様…その上山門からは、卑弥呼の墓とも云われる「箸墓」や三輪山が見渡せる絶景も楽しめた。

大和の寺社を堪能すると、愈々談山神社へ…お能迄時間が有ったので、この日特別公開された秘仏「談峯如意輪観世音菩薩像(鎌倉期)」を拝見した後境内を見て歩いていると、境内の奥の奥の山路を歩いた末に、末社の「三天稲荷」が在った。此処は何とも「雰囲気」の有る場所なので、もし談山神社に行かれたら、是非お参りをして頂きたい。

日頃の不摂生が祟り、歩き過ぎで足が疲れ切ってしまったが、アッと云う間に1時半前と為り、演能が行われる権殿に行くと、国立能楽堂の門脇さんや田邊三郎助先生にばったりお会いし、ご挨拶。満員の殿内に席を確保すると、開け放たれた扉から戦ぐ風や鶯の鳴き声を楽しみながら、先ずはお祓いと玉串奉納、長岡宮司の挨拶を経て、最初の演目多武峰式「翁」が始まった。

「翁」は、社蔵の「摩多羅神面」掛けた観世銕之丞師…通常は3人居る小鼓も1人、太鼓も入った囃子方をバックに非常に力強い謡と舞を披露したが、その通常の翁面よりも大きい「摩多羅神面」と銕之丞師の堂々とした体躯は、五穀豊穣を祈ると云う目的の能楽の原点を観客に強く印象付けた。

続いては、梅若玄祥師の舞囃子「葛城」。ここ数年毎回感じるのだが、玄祥師の舞は今の能楽界ではブッチ切りのNo.1では無いか。こう云っては何だが、紋付袴だけを付け(装束無しで)、あれだけ立派な体格且つ頭も丸めて居られても、何とも美しい女神に見えるのだから恐るべし、で有る。そして最後は、宗家がこれも社蔵の「赤鬼」と云う面を掛けての「土蜘蛛」と祝言を以てして、今年の奉納「談山能」は無事終了。

神気と霊気に溢れた多武峰と「談山能」に因って、移動距離の多かった旅やニューヨークでの生活で筆者に溜まった垢が取れ、体内の細胞の1つ1つが一皮剥けた気がする、余りにも貴重な2日間で有った。

が、明日から香港で有る…(溜息)。