キム・ギドクの描く、男に取っての「最低最悪の悪夢」。

メリー・クリスマス!

と云う事で、今年も後1週間…師走酣の先週末は、青山のスパイラル・ホールで開催されたトーク・ショウへと向かった。

このトーク・ショウは、スパイラルで現在開催中の展覧会「Boutique!ーファッションって何?アートと考える、その姿」にコラボ作品を出展して居る、アーティスト舘鼻則孝と松井えり菜両氏に拠る物。

超個性的な作品でその名を知られる、自画像をメインとするペインターと世界で活躍中のシューメイカーとのトークは、これまた非常に個性的な物だったが、特に舘鼻氏の生い立ち(歌舞伎町の銭湯!)や、「ヒールレス・シューズ」が彼の芸大卒業制作品だった事、然もその発想の基が花魁の「高下駄」だった事等、興味深い事ばかり。

が、そのトーク中最も驚いた事は何かと云うと、舘鼻氏の靴を買った人達が皆実際に履いて居て、年に1〜2回靴底の修理の為に送り返して来る人も沢山居ると云う事だった…流石舘鼻氏の目指す「工芸」的な、或いは「日本美術=道具」な話だが、あれだけアーティスティックな靴が実際に使われて居るなんて、素晴らしい事では無いか!

さて、此処からが今日の本題。

先日、男に取って極めて恐ろしい映画を観た…その作品とはキム・ギドク監督の最新作「メビウス」で有る。

ネタバレしたく無いので詳しい内容は端折るが、何しろ妻子を持つ男の一寸した浮気が原因で、「男」に取ってはもう口には出せない位の、残酷で救いの無い、最低最悪な悪夢の「連鎖」が男の家族に始まる。

そしてこの悪夢とは、肉体的にも精神的にも「男」が考え得る最低最悪の苦痛の連続の事で有り、その連鎖は「メビウス」の輪の様に、終わり無く循環し続けるのだ。

「一切セリフの無い」、現代のサイレント・フィルムで有るこの作品中の父親と我々観客は、何とかしてその連鎖を断ち切ろうと無駄な努力をするのだが、監督のギドクはそれを決して許さず、父親の受ける苦しみを、情け容赦無く強制的に我々にも共有させる。

その上その救いの無さ具合が、「今僕が観ているこの物語は、若しかしたらノンフィクションなのでは無いか?」と思わせる程に、リアルに執拗に観客を責め立てるのだ。

そんな風に責め立てられた観客の内の1人である僕が、この仏教的「因果応報」感に充ち満ちた作品を観て強く感じたのは、現代韓国的な風土と、もう1つは韓国と云う国が伝統的に持つ「男性性」で有った。

この「メビウス」の表面上の事件だけを見て、大島の「愛のコリーダ」と比較するのは容易いかも知れないが、両作の最大の相違点は、この凄惨な物語の舞台が日本か韓国か、そして禍の起きる家族が日本人で有るか韓国人で有るか、と云う地理性と国民性、そしてその土地と人間の「湿度」の高低に他ならない。

日本人がとうの昔に失い、韓国と云う国が未だに持つマッチョ/男性性と、その大いなる弱点をキム監督が暴力的に曝け出す「メビウス」…キム監督の力量を見せ付けられる、若松孝二的ドキュメンタリー・タッチの力強い作品だが、現代日本の勇気有る男性にこそ、観て貰いたい問題作だ。

…が然し、男に取ってはマジに最低最悪な悪夢の連続なので、男性諸君、気絶しない様に(気の弱い僕が何度スクリーンから眼を背け、歯軋りをし、唇を噛み締めた事か…笑)!