ノーベル文学賞に考える、芸術/商業世界に於ける「差異」。

ボブ・ディランノーベル文学賞を受賞した。

日本では村上春樹が毎年毎年最有力候補と叫ばれて、僕はもうウンザリし続けて居るのだが(拙ダイアリー:「『1Q84』読了と、今此処に在る危惧」参照)、日本人及びメディアはもう良い加減「これだけ候補に挙がって居るのに、何故獲れないのか?」を検証すべきだろう。

然し、村上春樹の小説が此処迄文学芸術的に評価されて居る理由が、個人的には未だに本当〜に分からないのだが、此処まで獲れないと為ると、流石ノーベル賞と云うか、僕の文学鑑賞能力も正しいのかとさえ思えて来る(笑)。

さてシンガー・ソングライターで有るディランは、今回は「詩人」として「文学賞」を受賞したのだろうと思うが(未だ辞退する可能性も有るか…)、では「作詞家」と「詩人」の違いは何だろうと考えた。

僕が思うに(大胆に、大雑把に云って仕舞おう)、詩はそれ単独で存在できるが、詞は音楽が無ければ存在しない。そして詩人はアートの世界で言えば「ハイ・アート」或いは「ファイン・アート」のアーティストで、作詞家は「ポピュラー/コマーシャル」なクリエイターで有る。そしてこの微妙かつ厳密な「差異」は、アーティストと「デザイナー」の関係にも似て居るし、アートと「工芸」、そしてアートと「メディア・エンターテイメント」との違いとも共通する気がする。

その意味で村上春樹の作品を考えてみれば、其れ等はそもそも「パターン化されたお洒落なエンターテイメント」なのだから(異論反論有るでしょう)、毎年毎年ノーベル文学賞候補と騒ぐ方がオカシイし、世界で読まれて居る事実だけが重要ならば、「ハリー・ポッター」や「ハーレクイン・ロマンス」、スティーブン・キングが早々に受賞せねば為るまい。

そこで今回の受賞者、ディランで有る。

長い間、詩人としての評価も高かったディラン…アメリカでは詩集が刊行され、例えばパティ・スミス等の作品と共に、その詩は朗読会の定番でも有る。が、今回の「受賞理由」を見ると、

"for having created new poetic expressions within the great American song tradition."

「長く偉大なアメリカ歌謡の伝統に於いて、新しい詩的表現を創造した」と有る…と云う事は、「歌謡曲の『詞』に於いて、『詩』的表現を創造した」訳で、詳しく英語で云うならば、

"for having created new poetic expressions within the lyrics of great American song tradition."

で有って、これはそもそも歌謡曲の「詞」は「詩」では無く、況してやどちらが上とか下とか優劣では無い、「ファイン」「コマーシャル」と云ったジャンル的「差異」が存在すると云う、一つの考え方の顕れでは無いかと思う。

さて此処10〜15年位の間、この「差異=境界線」の存在は、古臭い時代遅れな考えと云われ続け、例えば「アニメもアート」「デザインもアート」「メディア・エンターテイメントもアート」、そして「誰でもアーティスト」的な考えに代表される、「アートのボーダーレス」ブームや「何でもアート化」現象を推進して来た人々に拠って、大分消失して仕舞った。

…と云う位だから、僕はそう云う「アートと他分野の境界線」が有った方が良いと思って居る派なのだが、誤解の無い様に再び強調して置けば、何もアートの方がデザインやアニメ等の「他分野」に勝って居る等、これぽっちも思って居ない。

その反面僕が日頃、例えばレセプションや酒の席で「アーティストと呼ばれたい」デザイナーに滔々と話されたり、「漫画もアニメもアートなのだ!」と血相変えて叫ぶ若者に食って掛かられたりするので、その度に相手を「今時のアートもアーティストもレヴェルが低いんだから、アーティストに為るのも、アニメをアートと呼ぶのも止めたら?」と冗談を交えて宥めたりして居る事を考えると、どうも「アートの方が、デザインやアニメより上」と思って居る「当事者」が多い気も、正直して仕舞う。

アートはアート、デザインはデザイン、詩は詩、歌詞は歌詞…それぞれの分野で素晴らしいモノは素晴らしい。そして僕個人的には、「アートと…の垣根を超えた何とか」とか「境界のファジーな所に新しいモノが生まれる」、「…の要素を加えた新作能」(「新作能」ではなく、「舞踏」の様に新しい舞台芸術として命名すれば良い)と云った考えが、逆に堪らなく古臭く感じられて、アーティストやクリエイターはその分野で勝負し、或いは新しい分野を自力で作るべきでは無いか、と思って仕舞ったりもする。何故なら「曖昧な境界」にこそ、ニセモノやユルい上っ面だけの「アートっぽい」モノが棲息する事も多いからだ。

ディランは詩と詞の垣根を超えよう、等とは思わなかったと思うし、某全国紙の新聞が云う様に「ロックを芸術に昇華させた」(ロックは「芸術」の下なのか?)訳でも無い。がそれと同時に、芸術分野は科学分野の様に、全世界共通の「結果」が得られる訳でも無い…ノーベル文学賞の難しさは其処に在る。

芸術・商業分野に於ける色々な意味での「差異」を考えさせられた、今回のディランのノーベル文学賞受賞でした。


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