「箱の中のヒツジ」を見る眼:「星の王子様」再読。

寒さが振り返したニューヨークの昨日土曜日は、そろそろ終了して仕舞う展覧会を幾つか観て廻った。

前夜、出張帰りのラガーディア空港に降り立ったのは23時半前だったが、それ程遅かったにも関わらず朝頑張って先ず向かったのは、75丁目とパーク・アヴェニューの角に新しくGagosianがオープンしたスペース…其処でダグラス・ゴードンの新作インスタレーション「Phantom」を観る(昨日で終了)。

ゴードンがソングライター&シンガーのルーファス・ウェインライトとコラボした本作は、「レクイエム」の中の苦悩と憧れを検証する。インスタレーションは、壊れ残骸となったピアノと共に、ゆっくりと瞬くウエインライトのメイキャップされた目が大写しで映い出される、「ポートレイト」に拘るゴードンらしい力の入った作品だが、音楽も映像も一寸在り来たりな感じで、元々ファンな僕でもイマイチ感が拭えず…。

落胆しつつ次に向かったのは、同ガゴシアンの76丁目&マディソン街のギャラリーで開催して居た(此方も昨日で終了…)、Urs Fischerのインスタレーションの展覧会…そして此方の展覧会は、かなりヨロシかった!

最初の緑に塗られた部屋には、ペットボトルに拠って浮かんだ椅子や、両手首の乗った赤い椅子、切り取られた足等が配置される。そして次の「ピンクの間」には、回転する巨大な球と黄色い椅子が置かれ、蛍光灯も電灯の代わりにやさいが付けられた、パステル調のミニマルな夢の世界へと観る者を誘う、「間」も抜群に素晴らしいインスタレーションで有った。

そうしてアッパー・イースト・サイドを後にすると、今度はチェルシーへ…Luhring Augustineで開催されて居た(此方は24日迄!)、森村泰昌の展覧会、「Yasumasa Morimura: Las Meninas Reborn in the Night」だ。

今回発表されたのは、1656年のベラスケスの名作に自分を登場させた森村の代表作の「進化版」で、その森村版「ラス・メニナス」の制作現場が時系列的に描かれる写真作品の連作。見応えの有る大画面と、其処に描かれた相変わらずユーモア溢れる「ストーリー」は、二重三重のトリック・ペインティングの様相を呈し、僕をニヤリとさせる…素晴らしい作品だと思う。

と云う訳で、此処で話は一昨日の金曜日に遡る…この日は早朝5時過ぎの迎えの車に乗り、アメリカ国内出張へと出掛けた。

彼の地での仕事は、僕が扱った日本美術品としては史上2番目に高額な仏像や経典、秀吉が画面に登場する屏風や光琳・乾山合作陶磁器等、僕が昨年「プライヴェート・セール」で売却した超重要作品9点のシッピングの立会い。

丁寧にパッキングされ、これから買い手の元へと運ばれて行く作品達と最後のお別れをしたのだが、僕の仕事が麻薬的なのは、こんな素晴らしい作品達と出逢えるからと云う事に尽きる。

が、こう云う作品と関われる良い仕事でも、時差を利用した往復7時間を超えるフライトは辛いに決まって居るのだが、今回は持参した一冊の本が僕を救ってくれた。「星の王子さま」…この本が今日のダイアリーの主役だ。

ご存知アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ作「星の王子様」は、1943年にアメリカで初版。幼稚園時からフランス系の学校でフランス語をやって居た僕には、原語でもお馴染みの「童話」だが、此れは単なる童話では無く、挿画として描かれた美しいイラストレーションと共に、含蓄深い寓話集とでも呼びたい作品。

冒頭の「象を飲み込んだウワバミ」の絵から始まるこの物語は、昔から僕の心を捉えて離さなかったが、然し一昨日、50を過ぎて本当に久し振りに機内で読んだ僕は、涙を堪える事が出来なかったので有る…。

それはこの物語には、例えば見栄やルーティン、金や地位等を風刺する含蓄有る言葉が数多く出て来るが、然しそれよりも、友情や愛情と云った、オトナに為ったら恥ずかしくてとても伝えられない事柄の真理を、王子様と彼の星に咲く花、或いはキツネとの関係性を用いて、誠にストレートにサン=テグジュペリは書いているからだ。

「もし、何百もの星の何処かに咲いている一輪の花が大好きな人が居るとしたら、その人は星を眺めるだけで幸せな気持ちになるよ。『僕の好きな花が何処かにある』って思えるから。ヒツジがその花を食べるって事は、その人に取って星という星が全て消えて仕舞う様な物だよ。」

「君が4時に来るしたら、僕は3時には嬉しくなる。時間が経つに従って、僕は嬉しさが増すんだ。4時になるとソワソワするよ。幸せな気持ちになるんだ」

「大切な事は目に見えない。」

「僕は花に対して責任があるんだ。本当に弱い花なんだよ。純粋な花なんだよ。世界から身を守るのに、4つのトゲしか持っていないんだ。」

「星の王子様」とは人が持つべき「童心」で有り、「良心」で有る。そして「象を消化中のウワバミ」の絵を見ても「帽子」にしか見えず、外見や肩書や常識等に囚われ惑わされるが故に「箱の中のヒツジ」を見る事の出来無いオトナが、「目に見えない大切な事」を見付けるのにはどうしたら良いのか?

アートも人も森羅万象も、その真実を知るには「箱の中のヒツジ」を見る眼が必要だ。

そしてこの物語の最後の最後に書かれている様に、「物事の結末」は一つではなく、その人の想像力に拠って幾らでも変える事が出来る…「ヒツジ年」の新春、満席のUA機内でそう云うオトナで居たいと痛切に感じた50男は、王子様の旅立ちの場面を読み終えた途端、図らずも涙して仕舞ったのでした。