ある日作成しよう。

日本に来て1週間が経った。

が、東京→ニューヨーク→ロンドン→ニューヨーク→サンフランシスコ→ニューヨーク→東京→大阪→東京と云う旅程を3週間一寸で熟した「ツケ」の、幾重の時差ボケは簡単には解消出来ず、身体の疲れも極致…あぁ、休みたい。

そんな中先週末は、歌舞伎座での「寿初春大歌舞伎」の夜の部を観る…演目は「猩々」「二条城の清正」「廓文章 吉田屋」、そして「雪暮夜入谷畦道 直侍」の「目出度い」四狂言…その中でも見所だったのは、矢張り「吉田屋」で夕霧を演じた玉三郎と「直侍」を演じた染五郎で、この2人の確りとした芸に安心して鑑賞する。

また、某アーティストに付き添っての神保町「古写真」探索ツアーもエンジョイ。2人で幾つかの古書店を訪ね、実際に幕末明治期の写真や葉書を見せて貰ったのだが、神保町の店同士の連絡ネットワークは凄く早くて、或る店ではドアを開けて入った途端に「お待ちしてました」と云われ、ビックリ…そんな合間のランチは弟の店「いるさ」、休憩は「さぼうる」でと為り、久々に地元を満喫した。

で、此処からが今日の本題…つい先日、辰巳出版刊「私たちが熱狂した 80年代ジャパニーズロック」を読了した。

この本は、僕の高校・大学時代リアルタイムの80年代を走り抜けたジャパニーズ・ロックの旗手達、則ちRCサクセションバービーボーイズブルーハーツBoowyレベッカ等を中心にその登場背景や世相を語る物で、懐かしく読み進む事が出来た。

が、日本のロックと云っても、実際僕は中学時代からは外国ロック(The Whoイーグルス、パープルやクイーン、ボストン等々)、そして高校に入った頃は知ったばかりのR&B(E.W.& F.やリック・ジェイムズ、スティーヴィー・ワンダーKool & the Gang等)にハマって居て、日本の音楽は小学生時代から聴いて居たガロやChar等のニュー・ミュージック、若しくは外見重視のアイドルの曲に限られて居て、例えば恥ずかしながら松田聖子のファンクラブの会員で有ったりした(「ビオレ」のCMを観て同級生のKと速攻で入ったFCでは、会員番号が何と未だ100番代の超初期メンバーだったのだが、1年後会費が払えなくなり脱退した…笑)。

そんな高2に為ったばかりの或る日の事、教室の最後列に陣取って居た僕の隣の席に座って居た、当時上野に在った有名家具店の御曹司Hが、「桂屋、今度俺ん家に遊びに来いよ」と僕を誘った。

当時のHは清志郎の様に髪の毛が逆立って居て、ギターの腕前が凄くて授業中もギターの練習に余念が無く(笑)、先生の話等一切聞いて居ないので当然テストは出来ないが、知能指数の異常に高い所謂天才タイプの男だった。その証拠にHは高3に上がれず落第し退校したが、気が付いたら浪人した僕を追い越して高卒検定に合格し、僕より先に大学生に為って居た位だ。

さて上野から程近かったHの家は、立派な門構えの大きなお屋敷で、Hはその門前を掃除している女性を「ウチのお手伝いさん」と僕に紹介したので、「あぁ、こんな大きな家には矢張りお手伝いさんが居るものなのだなぁ…」と思ったら、その女性が「何言ってんだよ、この子は!」と怒ったので、お母さんだと分かったりした(笑)。

そんなこんなでHの部屋に行くと、信じられない数のレコード、ギターやアンプ、エフェクターやミキサー、吸い殻の詰まった灰皿(時効です…)や何やら怪しげなモノが散乱して居たが(笑)、Hは1枚のアルバム・レコードを持って来て、「桂屋、此奴ら聴いた事有る?」と僕に渡した。

そのモノクロ・ジャケットには、化粧をして立った不良っぽい5人の男が写って居たのだが、Hが「これ、発売されたばかりだよ」と云ったこのライヴ・アルバムこそ、大袈裟に云えば僕の人生観を大きく変えた、RCサクセションの「RHAPSODY」だったのだ。

そしてHとコーヒーを飲みながら聴いた「RHAPSODY」の1曲目、「よォーこそ」から僕はブッ飛んで仕舞って、パワー全開な「エネルギー」、泣かせる「ラプソディー」、後に放送禁止と為った「ボスしけてるぜ」で終わるA面、ストーンズの「アンジー」を思い起こさせる「エンジェル」から始まるB面も、歌詞がもう大好き過ぎる「ブン・ブン・ブン」、大名曲「雨上がりの夜空に」、「これをロックで?」と驚いた九ちゃんの「上を向いて歩こう」、そしてブチギレ感がサイコーなアンコール曲「キもちE」迄、大興奮した僕はゴンタ2号と共にエア・ピアノをしながら踊り捲り、Hはチャボや小川銀次と共にギターを弾き捲ったのだった!

そうしてその日以来、当時国分寺と国立の境界線に住んで居た僕は、ジモティな「多摩蘭坂」を聴いたり歩いたりして、RCサクセションの大ファンと為った訳だが、僕に取ってのRCとはこの「ラプソディー」と名曲「スローバラード」、そして「RCサクセション」と云うバンド名の由来に尽きる。

それは何故なら、清志郎とチャボが考えた「ある日作成しよう=RCサクセション」と云うバンド名の由来とその音楽が、新しいモノを創造する力、反体制の意識、若さ故の「やってられねぇ感」の昇華を僕に突き付け、グサグサと刺し抉り、その「快感」に僕は酔い痴れたからだ。

「私たちが熱狂した 80年代ジャパニーズロック」を読み終わった僕は、久し振りに「RHAPSODY」とベスト盤のCDを取り出して聴いてみたが、相変わらずカッコイイ「リンコワッショー」のベースや新井田耕造のドラム、梅津和時の噎ぶサックス、そして何よりも清志郎の歌声や「エッヴリボデー」や「クボコーベイベー」と云ったシャウト、痛快な歌詞やグルーヴに痺れつつ、HからRCを知らされたその日以来憧れ、心の中で持ち続けて来た積りだったパンク・スピリットが、今では大分薄れて仕舞った事を思い知らされたのだった…。

その数日後全く偶然に、もう長い事タイに住んで居るHから、NYの豪雪のお見舞いメールが来た。Hに「RHAPSODY」を久し振りに聴いた事を告げると、Hは唯一言「あれは名盤です」と返して来た。

今から思えば僕に取ってのジャパニーズ・ロックとは、即ちシーナ&ロケッツとピンク・クラウド(ジョニー、ルイス&チャー)、そしてRCだった…が、シーナもジョニーも、清志郎ももう居ない。

そんな時代の流れを思いながら、そしてHに感謝しながら、子供っぽいと思われようがどんな時でもパンク・スピリットを忘れず、体制やメディアを頭から信用せず、現状に満足せずに、ある日作成せねば…と、17歳の時にした様に、52歳の今再び心に誓った孫一なのでした。

然し清志郎はスゴいアーティストだ…。