青木良太「Ryota Aoki's Nippon !」展を観て、「陶芸」を考える。

昨晩は、チェルシーのIppodo Galleryで始まった、青木良太氏の展覧会レセプションへ。

この作家は、日本では小山登美夫ギャラリー等でも展覧会をする若手の作家であるが、ニューヨークには初登場らしい。会場に行って見ると、今回が最終回らしい「情熱大陸」の取材も来ていて、来場者も多い。作品は茶道具有り、オブジェ有りで素材感は面白いが、フォルムはかなり「デザイン」ぽく、ルーシー・リーの影響が直ぐ見て取れる程である。

さて此処で、一つ疑問を呈したい。

レセプションでは、作家本人は浴衣を着、ゲストの中にも和服姿の女性も多く、コンセプトとしての「NIPPON」を強調しているのだが、果たしてそれが正しい戦略かどうか。アメリカでの初展覧会がチェルシーのギャラリーで、という絶好の機会に、何故浴衣に代表される様な表層的「NIPPON」を強調せねばならないのか。例えば杉本博司村上隆草間弥生が「GAGOSIAN」で展覧会をした時に、彼らは着物を着て登場したのだろうか?

これは「陶芸」という芸術が、未だ日本と云う「ローカルな芸術」に留まっており、ニューヨーク、いや世界のスタンダード・アートとして成立していないからに他ならない。作家自身、延いてはギャラリーにも「日本」を前面に出さなければ、顧客達に振り向いてもらえないのでは、との重大な危惧があるからだ。

世界的に観れば、日本人以外の「陶芸作家」が増えている昨今、チェルシーの画廊でもたまに「陶芸」作品を発見するが、残念ながら感性の鋭い、現代美術と云える様な作品には殆ど巡り会えない。がしかし「見掛ける」と云う事は、少しずつ「現代美術」の枠組みに入って来ているとも云える。「陶芸」は、「日本古来の」とか「日本独自の」といった呪縛を自ら解かねばならない…自称「陶芸作家」の方々に、一層の奮起を期待したいモノである。

青木良太氏は、「日本の陶芸代表選手になる!」と公言しているらしいが、どうせなら「世界の現代美術家・陶芸代表」を目指したら如何だろうか。世界のイチローは浴衣など着なくても、世界の誰もが、彼が日本人だと云う事を知っているし「サムライ」だと認めている。「世界の」とはそういう事だ。その時初めて日本の「陶芸」はワールド・スタンダード・アートの一つになる事だろう。「日本」は、作品の中にだけ存在すれば良い。

世阿弥曰く「秘すれば花」と。

今日はこれから、「国際根付ソサエティ」(!)のチャリティーオークションとレセプション。どんな人々なのか…興味津々である(笑)。