空間「構成」概念:Fontana & Avedon@Gagosian。

ヘルズ・キッチンの我が庵、地獄宮殿前に出来た大人気のゲイ御用達のホテル「The Out」と、その地下のクラブ「The Exit」も大混雑、夜は花火も上がり大盛り上がりだった「ゲイ・パレード」開催の先週末は、体調も大分戻り、天候も落ち着いた事も有って、散歩がてら久々のチェルシーへ。

先ずは、大学時代の友人望月芳明君がグループ展に出展している、マルボロチェルシーでの展覧会「More and Different Flags」を観る。

学生時代、天才的なピアノの腕前を持っていた望月君の、鉄板を使った作品を始め都合11人の新作アートを楽しんだ後は、幾つかの画廊を廻ったが、筆者の興味を惹く展覧会は余り無く、強いて云えばヴィデオ作品が面白かった、マシュー・マークスでの「トーマス・デマンド」位だったか…。

そして、ブラブラとウィンドウ・アート・ウォッチングをしながら行き着いた先は、この日のお目当て、チェルシーに2店在るガゴシアンが開催している展覧会の内の1つ、24丁目の方の「Lucio Fontana:Ambienti Spaziali」展。

しかし業界歴20年を超える筆者には、フォンタナのソロ・ショウをアメリカの大画廊で観れる日が来る事等、想像もして居なかったので、妙に感慨深い。

何故なら、つい3-4年前迄は(今でもその「気」は有るのだが)、フォンタナは「ヨーロッパ・マーケット向き」の作家と相場は決まっていて、実際ニューヨークの現代美術セールに冒険的且つ実験的に出品しても、売れなかったり、価格が全く伸び無かったりして居たからだ。

その理由は、「アメリカ人には、フォンタナは難し過ぎるからだ」と長く云われて来たのだが、実際フォンタナ作品、特に「コンチェッティ・スパジアーリ(空間概念)」と呼ばれる、カンバスにナイフで「カット」を入れた作品群は、例えば日本人にはかなりウケが良く、筆者も初めて観た時にはその美しさと凶暴性、そして切り裂かれたカンバスの奥から覗く「闇」に、頭を殴られた様な気がした物で有る。

その後、筆者の専門である日本古美術のシーンにも「日本人数寄者好」のフォンタナ作品は登場し、例えば茶室の床の間に「空間概念・一重『切』」(笑)とも呼ぶべきミニマルな小品が掛かってたりすると、「何とセンスが良いのだろう!」と感心したりして居たのも、今と為っては懐かしい想い出…おっと、歳を取ると昔話が長くなる(笑)。

ガゴシアンに話を戻そう。結果から云うと、フォンタナ展は正直「イマサン」で有った…クオリティ的にはそれなりの作品が出展されて居たのだが、残念な事に、展示方法が誠に宜しくない。

フォンタナの作品は「其処にポツネンと有って」こそ、その存在感を増して良いのに、壁と云う壁に、オニの様な数の作品が所狭しと掛けられ、あれではフォンタナ作品の魅力「激減」としか云い様が無い。そんなギャラリーは、まるで「フォンタナ・バーゲン・セール」の巨大会場の様相を呈して居たが、もし作家本人が生きていてこの展示を観たら、激怒どころでは済まないのでは無かろうか!…残念極まりない。

余りの展示の煩雑さと、作品数の多さにウンザリして24丁目を後にし、今度は21丁目に在るもう1軒のガゴシアンで開催中の展覧会、「Richard Avedon:Murals and Portraits」へ、余り期待をせずに向かった。

が、此方のアヴェドン展、これがまた実に素晴らしかったので有る!

特に、3連或いは5連のパネルに等身大にプリントされた「Mural(壁画)」と呼ばれる群像作品には、どれも話題性の有る生身の人間とその時代性が表象され、アートとしての完成度もかなり高い。そしてその展示レイアウトも、フォンタナ展とは打って変わりスッキリとしてダイナミック、迫力も満点で、とても同じ画廊の展覧会とは思えない程だ(笑)。

生々しい迫力を以て迫るウォーホルと「The Factory」のスター達や、「The Chicago Seven」と呼ばれる政治集団、アレン・ギンズバーグとその家族、そしてベトナム戦争開戦を指導した軍人と政治家の集団の「壁画」。

1960-70年代のアメリカを象徴する彼らの、傲慢だがしかし何処か不安を感じさせるモノクロームの姿は、筆者をその時代へとタイム・スリップさせる程に、力強い…ファンタスティックな展覧会で有った!

21世紀の世界最強画廊ガゴシアンが開催する、フォンタナとアヴェドンと云う、全く異なる2人のアーティストの展覧会を一度に観た1日だったが、唯一の疑問は「何故今更、ガゴシアンが『フォンタナ』と『アヴェドン』を?」。

そして唯一の心残りは、「空間概念」の展示に「空間『構成』概念」の欠如が見られた事だろうか(笑)。