「クニタチ・シネマ・パラディッソ」。

TVが面白くないのでチャンネルをコロコロ変えていたら、IFCで「CINEMA PARADISO(ニュー・シネマ・パラダイス)」をやっていた。もう何度も観ているのだが、懲りずにまた観てしまい、切なくなってしまった。この映画を観ても、ナンとも思わん人も多いだろう。それはそれで宜しいのだが、切なくなるのにはチト個人的理由があるのである。

筆者は東京神田駿河台で生まれた。下町の路地裏で生まれ育ち、70年安保の時などは家の窓が学生の投石で割られ、機動隊の催涙ガスが家に入り込み、咽て泣いたりしていた。闘争のあった翌朝は、「兵共が夢の後」の御茶ノ水の坂に出て、血溜まりを飛び越え、頭の少し凹んだヘルメットやゲバ棒を拾い、弟と二人で「安保粉砕・春闘勝利」と意味も判らず叫びながら行進して遊んだ事を、今でも鮮明に思い出す。

そして小学校4年の終わりに中央線の国立(クニタチ)という所へ引っ越した。ずっと私立の学校に幼稚園から通っていた事もあって、転校するのが嫌だと親に駄々を捏ね、当時1時間半近くも掛けて飯田橋まで電車で通っていた。家は国立駅から歩ける距離にあったが、路地裏育ちの子からすると国立は田舎もいい所で、当時は狸や青大将、フクロウも居て、更に駅前には怪人二十面相が子供を脇に抱えている看板が立っており、「人さらい注意!」と書いてあった程だ(笑:マジです・・・)。

転校しなかった為に、新しい土地でナカナカ友達ができず、寂しい思いをしていたある日、親戚のお兄さんが遊びに来て、当時国立駅南口から少し入った所にあった映画館に連れて行ってくれた。「国立スカラ座」である。その時何を見たかは定かでない(多分「明日に向かって撃て」か「真夜中のカウボーイ」)のだが、大人の映画であった事は間違いない。この運命の日を境に筆者は「国立のトト」となり、「大人の映画」観たさに、毎週末スカラ座へと走る様になった。

今は「名画座」という映画館が全滅してしまったので、若い知らない読者も多いと思うが、名画座というのはテーマを決めて1日に2-3作品を上映し、それを1週間ごとに変えて興行する。例えば今週は「パニック映画特集」と云えば、「タワーリング・インフェルノ」と「ポセイドン・アドベンチャー」を1日2回ずつ上映、という具合だ。

当時小学生の「クニタチのトト」は毎週末必ず来るので、切符売り場にいるオジサンは「成人(指定ではない)」映画の時(例えば「エマニエル夫人」や「ラスト・タンゴ・イン・パリ」)でも入れてくれる様になり、一週間の興行の終わりである日曜日に行くと、不要になったポスターやスチール、チラシ(今でもコレクションが実家にある)等をくれる様になった。

子供ながらに「追憶」を観ては涙し、「ダウンタウン物語」で一気にジョディ・フォスターのファンになり、「十戒」の特撮に驚く。高校生位になると「ビッグ・ウエンズデー」のサーフィンやファッションに、また「卒業」の様な恋に憧れ、「ビリティス」「シビルの部屋」の週は興奮しっぱなし。ヴィスコンティやフェリー二、ゴダールトリュフォーやベルトリッチと出会い、映画の芸術性と人生の裏側を垣間見る。ホントウに何百本観たか判らないが、恋愛や友情、セックスや死、堕落と栄光など、人生に於いてこれから起こるであろう出来事の殆どを、「国立スカラ座」で予習したと云っても過言ではない。

「国立のトト」は、大学に入って一人暮らしを始める為都心に移り、必然的にスカラ座とは縁が薄くなった。その後社会人になったある日、実家に用があって国立駅に降り立った時、ふと思いついてスカラ座を観に行ったのだが、もう其処にスカラ座は無かった。途方に暮れながらも、大学生になって都心に越す時に、スカラ座のオジサンに挨拶に行った事を思い出した。「引っ越します」と云ったら、いつものオジサンは「でかくなったなぁ、もう大学か」と云ってチラシやらスチールやらをくれ、「元気でな」と一言云った。

この映画を観るといつもこの事を思い出して、チョット切なくなるのである。