「恥らい」と「笑い」:「春画」的日本文化の終焉。

ニューヨークの此処数日の気温の変化に、体が付いて行かない…先週末等は9℃迄下がった訳だから、それも致し方無い。

それに引き換え、3週目に入ったウォール街でのデモは「熱さ」を増して来ていて、高失業率やオバマの経済失政、そして「格差拡大」の是正を求める人々が、滔々1日にはブルックリン橋を占拠し、700人近くが拘束された。

この動きは西海岸へ飛び火し、英国やヨーロッパでも再燃するだろうと思う。そしてこれは、「資本主義」の根幹を揺るがす事態に為るかも知れない…ソマリアでもテロが有ったらしいが、一体世界はどうなってしまうのだろうか?

と云った状況下でも、筆者に「アート」と「●●」(さて、これは何でしょう?)は欠かせない(笑)。一昨日の日曜日も、引き続きニューヨーク・フィルム・フェスティヴァルの中の目玉企画の1つ、「Velvet Bullets & Steel Kisses: Celebrating the NIKKATSU Centennial」の中の3本を一挙に観て来た。

もう直ぐ22歳に為ると云う若い友人を伴い、Howard Gilman Theaterで先ず観た作品は「Hometown」、1930年度溝口健二監督作品「ふるさと」で有る。

この作品は伝説のオペラ歌手、藤原義江(1898−1976)をフィーチャーした「日活トーキー・第1弾作品」と為っているが、所々サイレント字幕も入ると云う混合作。後に藤原歌劇団を創設する事に為る主人公は、スコットランド人の父と日本人の母との間のハーフだが、今彼の顔をスクリーンで見てみると、彫りが深く超ハンサムで、トーキーならではの彼の「美しい歌声」と共に、昭和初期の風俗と美男美女の基準を楽しめる。溝口の演出も、非常に意識された「影」や鍵穴から覗き見する構図等極めてバタ臭いが、当時としてはさぞかし斬新で有ったろう。

余談だが、この藤原義江と云う人は筆者の出たG学園の先輩でも有るのだが、筆者の長い行き付けである代官山の老舗レストラン「O」に「フジワラ・ステーキ」為る「裏メニュー」があり、その名「フジワラ」は当にこの藤原義江の大好物だった事に由来している。筆者も何度か頂いた事が有るが、この「フジワラ・ステーキ」はヒレ・ステーキにデュクセルを乗せ、特製ドミグラス・ソースをたっぷりと掛けた、混血児で洋行帰りの、そして女性スキャンダルに事欠かない位に精力満点だったこのテナーにお似合いの、何ともヴォリュームの有るコッテリとした逸品で有った。

「ふるさと」の後は、休憩を挟んで「あんちくしょう」(拙ダイアリー:「『ノーベル賞作家』VS.『あんちくしょう』の対決を望む」参照)原作、古川卓巳監督の1956度作品、「Season of the Sun」(「太陽の季節」)。

本当に久し振りに観た本作は、何しろ先日惜しくも亡くなった長門裕之南田洋子の「若さ」に尽きる。この作品で2人が恋に落ち、一生を共にし、アルツハイマーに為った妻南田をその最期まで長門が傍で支えた事を考えると、この映画での2人の関係性を却って皮肉として見た上で、本当の夫婦、そして実際の男女の「絆」に感動せずには居られない。

しかしこの「通俗小説」としか眼に映らぬ原作、発表された当時、一般の若年層からの反発は無かったのだろうか?「ああ云う」高校生生活を過ごした後「タカ派」と為り、この期に及んで原発推進するのだから、東京が嫌だったら葉山か逗子に原発を誘致する様動いたら良いのに、と正直思う。

「あんちくしょう」原作映画の後は時間が有ったので、若き友人とブロードウェイ沿いの有名シェフの店「B」で軽く食事…途中、何処かで踊っていたゲル妻がジョインし暫し歓談した後は、若き友人と再び劇場へと戻る…この日の「メイン・イヴェント」を観る為で有った。

そう、この日のメイン、3本目の日活作品は「The World of Geisha」…'73年度神代辰巳監督作品、原題「四畳半襖の裏張り」で有る!

劇場に行くと、「この『日活ロマンポルノ』の大名作を、劇場スクリーンで観れるなんて!」と思う人がニューヨークにもかなり居たらしく、長蛇の列で、会場も超満員!…しかも来場者の99%は外国人で有った。

この永井荷風原作(と云われる)の映画化作品は、確かに「ポルノ」のジャンルに入るのだろうが、神代辰巳監督を筆頭に「日本映画の『技』」を駆使した演出、セットや照明もかなり凝っていて、「映画」としての見応え充分。また主演の宮下順子の何とも云えぬ色っぽい「恥じらい」の演技や、山谷初男のしっかりした幇間役の演技には感心頻りだし、途中画面に挿入される、例えば「男は顔では無い…金である」(笑)等の「芸者格言」には笑わされる。

そして観終わってみると、この作品に代表される「日活ロマンポルノ」とは、崔洋一周防正行相米慎二や「おくりびと」の滝田洋二郎根岸吉太郎森田芳光等の名監督達を世に送り出している事からも判る様に、今時の可愛い女の子が唯やり捲くるだけの(失礼!)の最近のAVとは根本的に異なり、カメラ・ワークや人物描写、映画的情緒、ストーリーは云う迄も無く、時には本作品にも垣間見える「社会思想」に迄言及する程、芸術性の高い「エロ」なのだと改めて認識したので有った。

22歳に為らんと云う芸術肉食系の若き友人君が、後で「思ったよりムラムラ来ました!」(笑)と云っていたのも当然だろう。

「エロ」にも「日本的なるモノ」が有った時代が懐かしい…「烏呼絵」以来「恥らい」や「笑い」を忘れない、日本の芸術史上脈々と続いていた「春画」の流れが、日活ロマンポルノで途絶えてしまった事が、甚だ残念に思える。

そして今日のダイアリーを書き終わった筆者も、今大変「恥らって」居ります…因みに、賢明な皆様はもうお分かりだと思いますが、上の「●●」の答えは「エロ」でしたので、悪しからず(笑)。