老師と仏様と御縁。

久々に風邪を引いた。幸いSWINE FLU(ブタインフル)では無く、只のVIRUSらしい。「明王の霍乱」だろう。

昨日はNY郊外のキャッツキルにある、大菩薩禅堂金剛寺の師家を務める嶋野栄道老師が、17日のオークションに掛かる仏像・仏画を観にいらした。嶋野老師は三島の龍澤寺での修行後ハワイ大学で学び、その後所持金(何と!)わずか5ドルでNYに渡り、40年間以上この地で禅を広めてきた方である。三島の龍澤寺と云えば、臨済宗でもかなり厳しい道場として有名で、先日このダイアリーにも書いた筆者の尊敬する政治思想家も、一時この寺に居住し盲目の禅思想家・達人として名高い山本玄峰老師に師事、行動を共にしていた時期がある。

筆者はこの嶋野老師とは、元裏千家所長故山田尚氏が逝去された時に、通夜・葬儀をお願いした関係で、お会いする事になった。老師と山田氏とは本当に長い友人としての付き合いがあり、山田氏がよくグーグー寝ていた事から戒名を「愚愚居士」と名付けた程の関係であったが、葬儀の際老師に「喝」を入れられ「引導」を渡されて旅立った山田氏も、さぞ本望であっただろうと思う。

さて老師をウエアハウスにお連れし、ビューイングが始まった。老師は運ばれてくる仏像を確りと見つめ、手を触れる前には必ずその度毎に手を合わせ、仏様にご挨拶をされる。その姿を見て、こういう敬虔な気持ちが仏像を触る時には必要なのだ、と改めて反省する。この仕事をしていると、何となく流れ作業で他の美術品と同じ様に(勿論大切に扱うのだが)扱ってしまい、神仏に関わるモノだということを忘れがちになる。こういう気持ちは「ブツゾウ・ブーム」のこの時代にこそ、やはり大切にしたいものである。

老師は、千手・虚空蔵・弥勒三菩薩の厨子入り極小木彫佛の技術には、同行のT女史、S氏と共に驚きの声を上げ、新田義貞の銘文のある金銅大如来像には、その端正なお顔と毛彫りに溜息を吐き、興福寺千体観音にはその流転の歴史を嘆じられる。しかし老師が最も反応を見せたのは、厨子入りの不動明王坐像であった。

このお不動さんは、カタログには「鎌倉」としてあるが、筆者としてはもう少し時代があるのでは、と思っている作品で、小振りでは在るが一見壇像のような古格があり、顔も造作が中心に集まり眼も出ていて、横から見ると顔が長い(要は顔が後ろに長い)。火炎・佛輪も良く彫ってあり、厨子ともピッタリと合う出来の仏様である。この作品をテーブルに載せ厨子の扉を開けた瞬間、老師が「これは!」と声を上げた。

そして老師は眼を閉じ、お経を唱え始め、お経が終わると徐に眼を開け、今度はジックリと仏様をご覧になる。何事か感じられるのか、「これは特別なものですね。受ける力が他の作品とは全く違う。」と仰り再びお経を唱える。何となく嬉しくなり、筆者も時折「明王」と呼ばれていると申上げたら、筆者の顔をマジマジと観た後、ニッコリ微笑んで「ナルホド!拝まれませんか?」と仰られた(笑)。

弁天様、天部、百萬塔などの彫刻の後は仏画鑑賞に移り、「如意輪観音像」の軸をご覧になった時は「色っぽいなぁ」と囁かれ、「五大力菩薩像」の時はまたお経を唱えられ「これもスゴイ!」と唸られる。仏教美術品の価値としては、勿論時代、作行きや状態が重要なのだが、本物の禅僧の方に感動されると、それだけでもう有難く感じるので不思議である。

さて、一通り観終わって椅子に腰掛けて雑談をしている時に、筆者が今度お会いしたら是非お尋ねしよう思っていた質問を、老師に投げかけた。「老師は仏像や仏画を売買する事を、どうお考えになりますか?」−老師はちょっと考えられた後、こう云われた。

「孫一さん、色々な考えがあると思うんだけど、こういう話があるんですよ。僕がNYに初めて来た時、本当にお金が無くてね。そんなある日ダウンタウンをウロウロしていたら、骨董屋さんが在って、そこに仏様があった。何とも良いお顔で、どうしても欲しくなっちゃったんだけど、値段を見たら400ドルもする。当時の僕には大金でとても払えないので、諦めて帰ったんです。でもその数日後ある人にその話をしたら、私が買って上げましょうという話になって、買って頂いたんです。」

「それから能く能く眺めたら、文が彫ってあって、読んだら何と自分の実家から程近い所のお寺に在ったらしい。その時、これはご縁だ!この地元の仏様は、NYで僕を見つけて応援してくれているのだ!と感動した物です。今でもその仏様はお寺に大事に持っておりますが、仏様の売り買いという事が無ければ、巡り会えなかったでしょうね。本当にご縁でしたな。」

そう、「縁」を大事にすれば良いのではないか。宗教美術に関わらず、日本美術愛好家は「縁」を大事にする。モノは「人とモノ」を縁で繋ぎ、「人と人」を縁で繋ぐ。「縁」を大事にする事で、人は「人」も「モノ」も大事にする。それで良いのでは無いだろうか。老師の発せられた「ご縁」という言葉は、其の事を改めて気付かせてくれた。

合掌。