ロマンティスト・サイエンティスト。

昨晩は久々にNYへ戻ってきた友人Hを中心に、古くからの友人達と食事をした。

メンバーは、嘗てロックフェラー大学アルツハイマー病の研究をしており、現在は都内某私立大学病院の病理研究室に居るH、現在もNYの某大学ラボで研究中の心臓のスペシャリストY先生、ジュリアード博士課程のピアニストFさん、そして孫一夫婦…皆、久々の集合であった。

Hとの付き合いは9−10年になろうか、良く行くミッドタウンの「つくし」と言う小料理屋の店主に紹介されたのが始まりであった。筆者と同じ年のこの店主ともお互い見知ってからは17年程経っており、お互い人の好き嫌いの激しい筆者の性格を熟知した上での紹介だから、何処か馬が合うと思ったのだろう。その日は、その後アメリカでは結構有名なソープ・オペラ・スター夫人と為った、元舞妓の友人と食事をしていたのだが、たまたまカウンターでHと隣り合わせに座ったのが運の尽き(笑)、いや縁の始まりだった。

況してや当時筆者は「免疫」に異常に興味を持っており、多田富雄の「免疫の意味論」等の免疫関係書を貪る様に読んでいた時期だったので、この脳神経学者Hとの出会いは実に好都合だったのだ。そのHとはその後親密な友人関係が続き、彼が日本に帰ってからも連絡を取り合っていたのだが、彼が久々にNYへ「旅行」で戻ってきたので、食事会を催す事となった訳だ。

さてこの日も色々な話題で盛り上がったのだが、実は今日のダイアリーの主役はHでは無く、Y先生である。Y先生はマジ優秀な方で、孫一よりもほんの少し年上だが話も非常に面白い。気取った所が無いスポーツマンでもあり、その日も10KM走ってきたとの事。

Y先生は、また稀なるロマンティストで、本当は此処に書きたい「余りにも美しい恋の話」があるのだが、残念だが彼のプライバシー保護の為書けない。でもそれは本当に良い話なので、将来いつか…Y先生の許可があればだが。しかし科学の世界でも、ロマンティストな科学者ならではの「発見」もあるに違いないと筆者は信じているし、そう云った想像力はアートにも当然通じる。

お酒も進み、話は最近のY先生の研究になった。研究の詳しい内容は省略するが、何しろY先生曰く「自然の摂理は驚くほど単純で美しい」そうで、科学は須らくそうかもしれないが、自分の研究事象が「最終的に」非常に簡潔な方程式や実験で論証できた時、その余りの「美しさと簡潔さ」に感動すると言う。所謂「E=MC2」の様な事なのであろう。その時のY先生と孫一の会話。

Y先生(以下Y)「ほら、日本のお茶の缶とか箱とかに在るでしょ?蓋を置いただけでスーッと蓋が降りて行って閉まる感覚。あんな感じなんだよね。あれって、重力意識してるよね。」

孫一(以下M)「そう云えば、ニュートリノを観測してる、カミオカンデの水槽の電球の雛形も、元々東京下町の工場の職人がガラス吹いて作ったんですよね。」

Y「そうそう、日本人しか出来ないよねー。浮世絵のボカシとかさ。」

M「この間NYタイムズが今度売る利休の茶杓取材に来て、箱の多さとその出来の素晴しさに感動してましたよ。」

Y「やっぱ古来、世界人類共通の美意識とか在って、ホラ美術にも黄金比とかあるじゃない?ピタゴラスの定理とかも、これ以上無いって位簡潔で美しいよね。」

そうなのだ。古来人類、いや宇宙を含めた森羅万象の「美の基準」が在って、それは珠に「心の琴線」とも呼ばれたりして、人類の中に生き続けている。科学と美術は一見正反対の位置にある様に思いがちだが、否、共に人類が発見した「定理」である「簡潔さと美」は、科学と芸術の両世界に絶えず共存していると云っても過言では無い。

Y先生の様な「ジャパニーズ・ロマンティスト・サイエンティスト」は、「桐箱の蓋が重力で自然に下がり、静かに閉まる様な」美しい論文を、これからも数々発表して行く事だろう。