「死」への準備−My Sister's Keeper。

今日のダイアリーは少々重くなるが、御容赦頂きたい。

さて貴方は、人が「死ぬ瞬間」を観た事があるだろうか。筆者は、人生に二度だけ有る。一度目は小学生の頃、自宅で祖母が亡くなった時、もう一度は、大学生の時に看取った叔父さんである。叔父さんの時は、病室で二人きりの時に、手を握った侭逝ってしまったのだが、その瞬間の「感触」は、今でも忘れられない。

実は筆者の叔母が、1週間前に亡くなった。生涯独身で世界を旅し(南極迄行っている)、趣味であったお能を、死の1週間前迄続けた。お金に不自由した事も無く、80半ばの年を考えると、正直「仕方ない」と思える程だ。然し、ふと彼女が生涯独身だった事や、小さな体に巣食った癌を何度も切った事を思えば、その人生が実際に「幸福」であったかどうかは、結局本人にしか解らない事なのだろう。

今日成田行きANA009便機内で、「My Sister's Keeper(邦題:私の中のあなた)」を観た。非常に重いテーマを扱ったベストセラーの映画化であるが、監督ニック・カサヴェテスの巧みなオムニバス的演出に拠って、優れた作品となっている。

三人兄妹の真ん中の娘が白血病に冒されるが、両親はその娘の「命を救う為」に、人工受精に拠って妹を産む。姉に完璧にマッチする骨髄が必要だったからだ。だがある日、誕生以来姉の為に、自分の体を提供・犠牲にしてきた妹が、腎臓を姉に上げたくないと云う理由で、弁護士を通じて両親を告訴する。両親は当然激怒するが、決着は裁判へと委ねられる。

その間に、家族一人一人の視点からの「これまで」がドキュメント・タッチで語られ、少しずつ妹の「訴訟」の意味が明らかになって行くのだが、この中でも白血病の姉と、失読性の兄役の若手俳優の演技が非常に素晴らしく、涙無くして観る事が出来ない。結末は此処では伏せるが、人間にとって永遠のテーマである「死とは何か」、そして「死とは誰の物か」を改めて考えさせられる作品である。

「死」は誰にでも訪れ、此だけは老いも若きも、男も女も、富者も貧者も人間全て平等である…ある時筆者は、チベット仏教を学んでいる人と「死の準備」について議論した。彼は「人は『良い死』を迎える為に、学びそして準備をせねばならない。」と云うが、筆者からすると「死」は「平等」にやっては来るが、そのタイミングは決して「平等」とは云えない。例えば、準備する間もなく逝ってしまった子供等は、どうすれば良いと云うのだ・・・。

「死」を意識する事は恐ろしいし、況してや「準備」をするのは容易では無い。唯一出来る事は、この「一瞬一瞬」に生死を賭けて生きる事。正受老人悟、「一大事と申すは、今日只今の心也」と。

そして自分の「死」や「命」は、決して自分だけの物では無く、家族や友人とも「共有する」物である、と考える。と云う事は、「自分の死」を考え恐れるよりも、「自分の死後も、部分的に自分の命を共有する、愛する者達」の事を熟考すべきなのでは無いだろうか。

子供の頃から、寝ている間に何時心臓が止まるか心配で、毎日最低一回は「死」について考えて来ている筆者が、「今の所」辿り着いている結論が此処で、筆者にとっての「死の準備」とは、「自分の死後の、愛する者達への準備」なのである。

この映画は、その事を改めて確認させてくれた。「重い」が決して「暗く」は無い、カサヴェテスの力作である。


追記:東京の家に戻って来たら、留守番電話のランプが点滅していた。聞いてみると、前回日本を発った日の朝、亡くなった叔母からのメッセージが入っており、「お小遣いを用意したから取りに来る様に」との事だった。最後は看取れなかったが、叔母の声を聞く事が出来た。涙が零れた。お小遣いは貰い損ねたが、それはまた、あの世での楽しみに。